×になりきれてない二人
01. そうやって笑う、お前がいけない
02. 壊したりしないで
03. 叩き壊してやる!
04. 離れているほど、いとしいなんて
05. 右手はただの手のひらなんだよ
06. 断固拒否!
07. 雨は涙に似ているね
08. 覚悟はいいか
※▲でここに戻ります。
01.そうやって笑う、お前がいけない
意味が分からないと思う。はっきり言うとこいつが話す言葉は頭の中に入って来ない。語りかけてくる単語はちゃんとした自分と共通の母国語で、「僕は」「あなたに」「興味が」「あります」と単語で聞けば、意味だって分かる。
だけどそれが繋がって言葉になると、知らない国の言葉を聞いているわけではないのに、てんで意味が分からなくなってしまうのだ。なんだいったい。興味があるって!
「そのままの意味ですよ?」
むかつく。なにがむかつくって、俺がこうして意味が分からないと言っているにも拘らず、こいつは出来の悪い生徒を前にした幼稚園の先生のように笑うだけで、けして回答を寄こそうとはしない。
俺は小さいときによく言われた。自分で考えなきゃ、意味がないでしょう?そんなにせっかちに他所から回答を求めないで、しっかりと考えなきゃ!
幼稚園の先生は笑うとかわいいえくぼが出来て、雰囲気はそうだな……うん。朝比奈さんのようだった。ふんわりほんわり、抱き締められると甘い匂いがした。こんなごつごつと骨ばって、強い力で俺を引き寄せるような高校生男児では、けしてない。
考える気も失せるというもの。大体お前の話はちっとも要点がまとまっていないし、「例えば」と用意された例だって、ちっとも分かりやすくないのだ。
「ここに男子高校生がいたとして、もう一人。隣に座っていたとします。相手が疲れたと言うので、男子高校生は自動販売機からコーラを買って来て、それを渡します。相手はとても礼儀正しく優しい方なので、「悪いな、サンキュ」と笑って、コーラを受け取ってくれました」
また訳の分からない例え話を始められたが、俺には止める気はさらさら起こらなかった。正直に言おう。どうでもいいと思い始めていたし、そろそろ抱き締められているこの体勢に途方もなく疲れてもいた。
「相手にはそんなつもりもないことが、男子高校生には分かっていました。コーラを差し出したのが男子高校生ではなく、可愛らしく愛らしい先輩でも、よく昼食をご一緒している同級生でも、たまたま通りかかった老婆でも、言葉が違えど相手は笑みを浮かべて、感謝の意を表したでしょう。分かっているんです。向けられた笑顔が、自分だけのものじゃない、と」
手に持ったコーラの缶が、傾いていないかが気になる。お互い制服を何着も持っているわけではない。この暑い最中、冬服を着て来なきゃいけないなどと御免被りたい。視線を下げて確認しようとするが、拘束が強まっただけだった。
「でも、男子高校生は願ってしまうんです。可愛い部活の先輩よりも、同じクラスで時間を共にしている同窓よりも、もっともっと、自分に笑いかけて欲しいと。そのためなら、あなたが興味を惹かれるもの全てを知りたいと、ね」
俺は長い口上を聞くことに本当に草臥れてしまって、言わない方が自分のためだと頭のどこかで分かっていたのに、つい口を開いてしまう。
その男子高校生はいつも笑顔しか浮かべていなくて、超能力なんか使えてしまって、顔も頭も良くて身長だって俺よりも8センチも高いくせに、何か血迷って男を抱き締めちゃいないか。
「今回の例え話は分かりやすかったですか?尽力したつもりです」
分かりやすいとか難いとかそういう以前に、まんま俺達だろうが。そう突っ込むのは容易いが、躊躇われた。なんだよ、誰よりも多く、笑顔を浮かべて欲しいとか。今どき少女漫画でだって使わないぞ、そんな台詞。
それよりも、そろそろ手を離して欲しい。公園のベンチで座ったままという、微妙な体勢で抱き締められた俺の腹筋も背筋も悲鳴を上げて来たし、コーラは絶対冷たい方が美味しい。飲み切ってしまいたい。
喉に突っ掛かった何かを腹に流し込んでしまわなくては、自分としては非常に気まずい台詞を吐いてしまいそうだ。そのために炭酸と黒い液体はうってつけで、だから俺は空いている方の手でこいつの肩を押しやった。
さっきまではぴくりとも動かなかったはずなのに、肩は簡単に離れ、密着していた体は元の距離へと戻る。そうだ、この空気が通りやすい間が、俺たちの立ち位置だったはずだろう?
お前の言いたいことは、俺には理解しかねる。お前にとって俺はただの観察対象で、部活で馬鹿やってるときもこうしてクラスメイトみたいに話しているときも、その仮面を捨て切れていないくせに。
コーラで喉を潤しながら、俺は突っぱねた。
「これは手厳しい」
バーカ。厳しくなんてないさ。そうやって軽々しく吹き飛ばされた告白に、お前がなんの未練もないように笑っているうちは、俺は俺自身も欺き続けなくちゃいけないんだ。だから。
そうやって笑う、お前がいけない。
▲
02. 壊したりしないで
博識な皆様なら、きっとご存知かと思われる。古人の残した偉大な言葉のひとつである、「苦虫を噛み潰したような顔」、という表現だ。もしかしたら「苦虫を噛み締めている顔」だったかもしれない。
まあ、そのあたりはアバウトでもいい。所詮俺の脳みそでは、言葉のなんとなくのニュアンスを覚えているだけで精一杯だし、話の重要な部分はそこではないのだから。
俺の隣にいるのが、当然のような素振りで歩いている自称「超能力者」は、常なら意味もなく顔を緩め笑顔を振りまいているはずなのに、まさにそう、「苦虫を只今咀嚼中です」と言った表情を浮かべていた。
こいつの笑顔以外の顔など数えるほどしか見たことがない。俺は過去を振り返りながら、指を折って数えたりしていた。右手は鞄で塞がっていたので、左指だけを折り曲げていたのだが、それが二往復をしたところで止めた。行動の不毛さに気が付いたからだ。
これが笑顔のキュートな異性ならば大歓迎だが、何が悲しくて見目は麗しくとも同性の、しかも俺よりも身長の高い男の顔を脳裏に思い描かなくてはいけないのか。
俺がこんな不毛な独り芝居をうっかりしてしまったのは、「苦虫が固すぎてまだ飲み込めていません」と言う顔をしているこいつが、帰宅途上の長く険しい坂を降りそうな今になっても、一言も口を開こうしないからだとも思う。
普段ならばうるさいくらいに纏わりついてくる古泉は、部室を出てからひたすらむっつりと口を引き結び、延々と地面を見つめていた。
こいつに秋波を送っている女の子たちならば、「思い悩んでいるお姿も素敵!」となるのだろうが、生憎俺は生粋の男子なので、そんな属性はない。ただただ、鬱陶しいだけだ。
いい加減にして欲しい。なにがそんなに気に食わないんだか。部室を出た途端に、正しく言い換えると、ハルヒのご機嫌を気にしなくても良い状態になった瞬間に、ガラリと雰囲気を変えやがって。
「僕の不機嫌の原因が、あなただということを自覚して下さい」
珍しいくらいの厳しい口調と眼差しが俺を見据えた。ようやく反応があったかと思えば、穏やかとは言い難い空気だ。顔が良い奴は得だな。怒っても様になる。十人並みの俺が厳しい視線というものを浮かべて見せたところで、ギャグにしかならんだろう。忌々しい。
「そんなことはないとは思いますよ。大体あなた、本気で怒ることなんてないじゃないですか」
うるさい、怒るっつうのはな、体力を使うんだよ。俺は出来れば毎日を平穏に、自堕落に、楽に生きたい性分なんだ。
「……話が逸れていますね。僕が言いたいのは、なんであんなことを涼宮さんに言ったんですか、ということです」
今更だが、俺はようやっとこいつが怒っている原因が分かった。そして正直に言うと、なんだそんなことかと呆れた。
「あなたはそうやって気楽そうですけど、部室にいたあなたと涼宮さん以外の全員が緊張していましたよ。何を言い出すのかと」
つまり超能力者も宇宙人も未来人も驚いていたわけだ。そりゃビックリだね。
「茶化さないで下さい。……なんのつもりです?」
右手が持っていたカバンの重さに耐え切れなくなって来たので、俺はそれをゆっくりな動作で肩に掛け直した。その間も古泉の視線は俺の一挙一投足から離れることなく、注視している。
そんなに見つめたって、俺には火の玉を出すことも空間を捻じ曲げることも時間を移動することも、出来やしないのにな。なんにも出来ない俺の挙動が憂慮されるってんだから、これが「神に選ばれた」ってことなのかね。
どっちかっていうと、標本にされた昆虫の気分だ。胸糞が悪いったらない。
なんのつもりもなにも、俺は台本を読んだだけだ。お前らが使う表現を引用するなら、「神が命じるままにその望みを叶えた」んだ。
古泉は反論も出来ずに、グッと詰まった。おいおい、口から生まれたようなこいつが言い淀むなんて、明日の天気は雷と嵐と吹雪のミックスか?ついでに親父まで降って来るんじゃないだろうな。
「じゃあ、なんであの台詞だったんです?」
そう、俺の周りには台本が何冊と積み重なっていた。なんのことはない、芸術祭への催しに古泉のクラスは劇をすることになり、その台本決めが部活動の前にあった。部活に遅刻をしてきた古泉は、ハルヒの質問に「結局決まりませんでした」と笑顔で応え、腕に抱えていた何冊もの台本をテーブルの上に置いたのだ。
「一応ピックアップは済んだので、あとはみんなで読み合わせをして決めることにしたんですよ」
「いいわね〜!映画もいいけど、当日の臨場感溢れる舞台も素敵だわ!アドリブでみくるちゃんに色々やってもらえそうだし!」
悲鳴を上げている先輩のために、俺は古泉の台本を一冊ちょろまかして、ハルヒの後頭部を叩いた。いい加減にしろと言うと、ハルヒは口をアヒルのように尖らせて、頭の上に乗ったままの台本を引っ手繰る。
「なら、いまキョンが演じて見せてよ。とりあえずそれで我慢してあげるわ」
なんでそこで俺にお鉢が回って来るんだとか、拒否権を行使するとか、たくさん言いたいことはあったのだが、マイ・スイート・エンジェル朝比奈さんの命運が掛かっている。未来の安寧のために、俺は一時の恥を晒す覚悟を決めた。
ハルヒから台本を受け取って中を捲ってみると、間違いなく女子生徒が書いたであろう、可愛らしい文字が並んでいる。直筆をコピーしたそれはどうやら創作らしく、初々しさというか、ぶっちゃけ素人っぽさが前面に押し出されていた。
しかし、その中の一文に目が止まる。何度も何度も、ハルヒ以外のSOS団の団員に繰り返されていたからだろうか。彼女は特別なのだ、と。耳にタコが出来て、そのさらに上に子ダコが乗ってもいいくらいに、何度も聞いたその言葉が、俺に気紛れというものを呼び起させた。
文を読んだだけだ。こう言っては大根にも失礼なくらいだが、俺のような大根未満役者に感情を込めるなんて芸当、出来るはずもないし、前後のストーリーすら分からない。
けれど、これを聞いたらハルヒはどう反応するのか、俺はそれが見たかった。
結果的に、ハルヒの反応は予想の範疇だった。俺をヘタクソだと散々扱き下ろし、すぐに興味を失って朝比奈さんにちょっかいを出し始める。なにが変化した訳でもない。
「軽率です。涼宮さんに自分の能力を自覚させてしまう可能性があったかもしれないんですよ」
お言葉を返しますが、俺は前に長門にありがたーい訓示を受けているんですよ。俺の言った言葉なんか、ハルヒは信じないさ。
長門の予想通り、俺の棒読みの台詞など、ハルヒは鼻にも掛けなかった。こいつだけが焦燥に駆られている。まあ珍しい古泉も見れたことで、恥もかいた甲斐があったと思っていいかもしれない。
「あなたって人は、……ぼくをどこまで、」
後半の古泉の呟きは聞こえなかった。あいつはいつの間にか立ち止まっていて、俺は知らないふりを決め込んで歩き続けていたから、声はだんだん尻すぼみになっていった。古泉だって、独り言を聞かれたくはないだろう。
とりあえず、あの台本が上演されることはないだろうな。あの台詞を話すことを、古泉は笑顔の仮面で断固として阻止するだろう。無難な劇を甘いマスクでこなして、その陰で閉鎖空間に飛んで行くんだろう。
でも、覚えておくと良い。願い事というものは、星に願ったって神様に届きやしない。本人に直接、言い聞かせなきゃいけないんだってことを。
みんな、途方もなく簡単で当たり前なのに、儚く脆過ぎるたったひとつを願っている。俺もきっと、切実なほどに、祈っているんだろう。
神様、あなたは願いをなんでも叶えてくれると言うけれど、実のところ僕が願っていることなどひとつもないのです。
あなたが雨を降らせるくらいに悲しむことも、大地を揺るがせるほど怒る狂うことがなければ、僕の望みはなにひとつとして。
神様、あなたは願いをなんでも叶えてくれると言うけれど、実のところその願いすら僕が真に望むことではなく、図らずともあなたが望んだものなのです。
僕はあなたに望まれこの唯一で絶対の、二人だけの世界に取り残されているのだから。
僕が体中の隅から隅まで搾り取って捻り出した望みは、だからほんの少しの果汁のようなものなのかもしれません。
あなたが望むなら、僕はいつまでもあなたの隣に存在し続けるのでしょう。そのことを寂しくは感じるけれども、悲しいとは思わない。
だから、だから、みんなが望んでいる世界を、
壊したりしないで。
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03. 叩き壊してやる!
気が付いたのは教室に入り、席に着いてからだった。朝礼の五分前、いつもなら卓上に肘を付いてだらしなく寝そべるところだが、今日だけはそれどころではない。
いつかやるかもしれないとは思っていたが、それがまさか今日だなんて。しかも朝っぱらから。まったく、一日のやる気を根こそぎ奪われてしまう。溜め息を思いっきり吐くと、すでに登校していた、真後ろの席の我が団長様は、あからさまに顔を顰めた。
「なに?朝から鬱陶しいわね!」
気にしないでくれ。いや、気が付いてもいいが、興味の矛先を向けずに、そっとして置いて欲しい。お前はお前のやりたいことをしていろ。俺は自分のことで忙しいんだ。
という視線を送ってみると、団長殿はさっきまで何かを一生懸命書き連ねていたノートを丸め(その表紙には「SOS団裏記録〜輝かしい戦歴〜」とあった。裏って何だ。裏って!)俺の後頭部を叩きやがった。いい音が鳴ったってことは、この頭蓋骨の中には脳細胞がぎっしり詰まっているとみたね。
「なに言ってるの!中身がからっからだから、いい音が鳴るんじゃない!木魚と一緒よ」
お前はなんてことを言うんだと憤慨しても、俺に非はないはずだ。自分が言われて嫌だと感じることは、他人にも言っちゃいけないと、小学生のときに先生に習わなかったのか!
「あら、あたしは同じことを言われてもなんとも思わないわ。中傷で腹を立てている奴等がなんで怒るのかなんて、図星を指されたからに決まってるのよ。あたしの頭の中にはぎーっしり!灰色の脳細胞が敷き詰まっているのは自明の理なんだから、そんな些細な中傷なんかじゃ怒りも湧いてこないわ」
よく言うよ。脳細胞が揃ってモンキーダンスをしながらラッパを吹いているくせに。きっといまも、カーニバルもサーカス団も吃驚な曲芸のオンパレードをしているだろうよ。
「なんか言った!?」
おい、怒らないんじゃなかったのか。などと己の寿命を短くするような言葉を、俺は懸命にも飲み込んで首を振るに止めた。実はこうしている時間も惜しい。
俺が鞄を持って席を立つと、ハルヒは仏頂面の上に怪訝な色を乗せるという、スゴ技をやってのけた。お前の表情筋はものすごく器用なんじゃないか。それをちょっと長門にも分けてやれ。
「あんた、どこに行くのよ。もう岡部が来るわよ」
俺はジッとハルヒを見つめた。正しくはハルヒの脳天のあたりを凝視した。性格が横暴やら唯我独尊やらの方面に捻じ曲がっているハルヒのことだから、絶対に頭の渦も奇天烈に違いないと思っていたのだが、現実は予想に反して、美しい渦巻きだった。不公平すぎる。世の中その見目麗しさだけで渡っていけると思うなよ。……渡って行っちまう人間の方が多いんだろうが。
俺は脳内に浮かんだ小憎らしいほどのスマイルマンに舌打ちをしてから、気持ちを切り替えた。時間が差し迫って来ている。もたもたしていたら担任に捕まってしまい、しなくても良い言い訳をしなくてはいけなくなり、ハルヒの興味をさらに引いてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。
これから腹痛という、やんごとなき事情により、午前中は欠席する。いまにも色んなものをぶちまけそうなくらい、頭が痛い。そんな意味合いのことを訥々と俺が語り聞かせると、ハルヒは小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「腹が痛いのか頭が痛いのか、どっちかにしなさいよ。合法的にサボりたいのならね。SOS団の活動時間までには戻ってきなさいよ」
団長殿のお墨付きを頂き、俺は教室を後にした。腹痛の上に頭痛を抱えているんだ。精々そう見えるようにそろりと、忍び足で。
教室に駆け込んでいく生徒と逆流して校外へと出た俺は、ダラダラと続いている坂道をいつもよりもさらにのんびりと歩き出した。歩道は左側。これが頭に黄色い帽子を被り、黒いランドセルを背負っている時ならば注意されてしまうだろうが、高校生にもなれば気に掛けてくる人間もいなくなる。
いや、あからさまに「サボりでしょ」という視線で見つめてくるおばちゃんたちの目は非常に痛かった。だが、これも「やんごとなき事情」のためである。我慢しなくてはいけない。
頑なに歩道の左側を歩き続けていた俺は、車の流れの切れ目を見計らって道路を横断した。青味がかった灰色のアスファルトは多少の凹凸はあるものののっぺりときれいなもので、ゴミひとつ、石ころひとつ落ちていない。ひと先ずその事に安堵する。
今度は右側を歩き始めた俺は、道路の花壇の付近や樹木の下に出来た影を、踏み締めるように坂を下って行った。小さい頃にやった影鬼や影踏みにちょっと似ていると思うと、なんだか楽しくなって来る。
いやいや、遊んでいる場合じゃないだろ。坂を下り切ると今度は駐輪場へと向かった。朝だと言うのに家路を辿るようで、自分だけ特別になったような気がしてしまう。やはり、どこか楽しかった。
駐輪場に着くと、自転車と自転車の隙間も確認しながら愛車の元へと向かう。一応何度もグルグル回るように探してみたが、「やんごとなき事情」は解決しそうになかった。
うーん、これは本気で考えなくてはいけないようだ。どうする。先に交番に行ってみるか。それとも生徒が拾っているかもしれない。職員室か。いや、いっそ店に行って契約を破棄するとか。そうすればハルヒの拘束が緩まるかも……それはないか。
新しい物にするにしても、情報をもう一度登録し直すのが憂鬱だった。高校の友人たちだけならば労力もそれほどでもないが、遠い親戚や中学の時の友人たちは捕まえるのが一苦労だ。
……やっぱりもうちょっと探してみるか。
新しい物を買ったあとの面倒加減と、いまの労働を天秤にかけて、後者の方に傾く。凭れかかっていた自転車から腰を上げて、俺は学校へと踵を返した。
登校する最中、自転車から降りたとき時間を確認した記憶がある。だから落としたとしたら、ここから先なのだが。
地面ばかり見ていた俺は、熱中するあまり歩道に立つ人間を避け切れなかった。しかもお恥かしい事に、ぶつかってよろめいたのは俺の方で、ふらついた体を咄嗟に支えられてしまう。
慌てて謝罪の言葉を口にしようとするが、ぶつかられた通行人Aの方が反応が速かった。
「大丈夫ですか?」
そして謝る気が一気に失せた。なんだ、朝っぱらからその爽やかスマイル。後光が射して見えるぜ。
「そうですか?僕はいつも、こんなものですが。今日が特別という訳ではありませんよ。ああ、でも、あなたに会えて嬉しいと思っているのは確かです」
いい、もう何も言うな。何も言わずにここから立ち去れ。学校行け。
そうして支えられていた腕を離そうとしたのだが、がっちり掴まれた手のひらはなかなか外れない。おい、なんのつもりだ。
「いえ、あなたは学校に行かないのかと思いまして」
困ったように笑う古泉の顔は、俺の頬あたりにとても近かった。近距離というやつだ。よし、わかった!とりあえず離れろ!
「仕方ありませんね」
仕方なくなんかない。これが当たり前のパーソナルスペースだ。近過ぎるお前の方がおかしい。腕を離され自由になった俺は、背を向けると古泉を無視して歩き始める。
「学校に行きますか?」
しかし「やんごとなき事情」のため、振り切ることは出来ない。こいつも俺のことなんか気にしないで、さっさと先に行けばいいのに。
「折角目的地は同じなのですから、ご一緒させて下さっても良いでしょう?」
却下。即効で撥ねつけた俺に古泉は肩を竦めて、やはり笑った。
「先程から何かをお探しのご様子。お手伝いしましょうか?」
結構だ。いや、こう言うとしつこい訪問販売の場合、肯定の返事として受け取るんだったな。いりません!そうだよな、きっぱりはっきりとした返事が、俺のためこいつのため、ひいては世界のためになるんだ。俺の心という、世界の安寧に!
「つれないお返事です。探し物は人が多ければ多いほど、すぐに見つかると思うのですが」
十人、二十人いればそりゃあ早く見つかるだろうが、たかが一人増えただけですぐに発見できるとは思わんね。それなりに人通りも多い通学路なので、俺の思考は交番に行くという案に、すでに切り替わっていた。届けられているかもしれない。
「そうですか。……たとえば、なぜ僕がここにいるのかを考えてみて下さい。とっくに授業は始まっている。そして僕の通学路からは微妙に外れたこの場所に、なぜかあなたを待ち伏せするように立ち止っていた」
正直に言おう。俺はまたかと思ったね。また古泉の「たとえば」が始まっちまった。長いくせに解釈が面倒で、声が落ち着いているもんだからぼんやり聞いていると眠くなる。それはどうでもいいのだが、とにかく古泉の語り掛けが始まってしまったので、俺は交番に向かいながら適当に相槌を打っていた。本当にこいつ、学校に行かなくていいのか。
「ただ単に偶然ですとか、または機関の呼び出しで遅れて、ここで車から降りただけかもしれません。しかし一番あり得そうな可能性は、僕があなたを待っていた、ということです。さて、なぜ僕があなたをわざわざ待っていたのか。考えられることは、涼宮さんのお話か、折り入って人気の無い所でご相談したい、男同志の悩み事が……色々上げられます」
いったいなんだ。結論を言え。明確に、且つ単純に。
「SOS団の集まりまで待ち切れないほどの急用ですよ。あなたがご不便なのではないかと思いまして」
そこでようやく、俺の歩みは止まった。なるほど、単純且つ明快だ。お前にしては分かりやすい説明だったな。
「お褒めに預かり光栄です」
にっこり笑みを浮かべている暇があるのなら、その右のポケットに突っ込んでいる手中の、俺の携帯電話をさっさと寄こせ!
「いえ、朝お声を掛けようと思ったら、まるで見計らったように目の前に落とされてしまったので……。これは新手のアプローチかと少し様子を窺ってしまいました」
アプローチって何だ!アプローチって!それはあれか!?食パンを齧ったままの女子中学生が交差点で格好いい男子にぶつかるあれとか、うっかりハンカチを落として、たまたま通り掛かった憧れの先輩が拾ってくれたりするあれやそれのことか!あり得ん。
「残念です。では、その楽しそうなあれやこれは、また次の機会に」
もう二度とないから安心しろ。携帯電話をお前の前に落とすなんて、これが最初で最後に決まっている。
古泉はもう一度「残念です」と繰り返して、大人しく俺の携帯電話を手渡してきた。折り畳み式の携帯は落した瞬間にコンクリートに擦れたらしく、多少の傷が付いてしまっていたが中身は問題ないようだ。
ホッとしてメールの新着を確認していたりすると、見慣れない文字のいくつかを発見する。おい、古泉。なんだこれは。
「なんだこれはと申しましても……。僕のアドレスです」
俺が聞きたいのは、落とす前には未登録だったはずのお前のアドレスが、なぜ当たり前のように俺の携帯に入っているのかということだ!お前見たんだな!俺の携帯を勝手に開けて、あまつさえ操作し、登録しやがったな!
「安心しました。密に連絡を取り合っているのは涼宮さんやSOS団の方以外、純粋なご友人やご家族の方ばかりのようですね。特に妹さんとのメールのやり取りが」
個人情報保護法って知ってるか。プライバシーの侵害でもいいぞ。真顔で拳を握り、腕を捲った俺に古泉は自分の携帯電話を差し向けてくる。
「大丈夫です。僕の携帯にも、あなたの番号を登録させて頂きましたから」
……、よーし、歯ぁ食い縛れ!!そしてその携帯電話、
叩き壊してやる!
▲
04. 離れているほど、いとしいなんて
ハルヒが口論をする場面は、非常に有難くないことに、多々ある。威勢がいいのは結構だが、人間社会という基盤に置いて、社交性を少しは身に付けて頂きたいものだが、それこそ馬の耳に念仏。暖簾に腕押し。昔の人は上手い言葉を残したもんだ。
「涼宮さんに社交性がないとは思いませんが。いつも相手の意見を尊重してらっしゃるじゃありませんか」
お前の目はいま何を映しているんだ。写真撮影に使うからと音楽室に押しかけ、練習中だった吹奏楽部を追い出そうとしている傍若無人さが見えんのか。
ハルヒのために暴虐無人という言葉を作って、後世に残したいと常々考えているんだが、どうやら俺が動かずとも他の人間たちの手によって、未来の辞書は書き換えられそうだ。ハルヒに負けた吹奏楽部の部長氏は、哀愁漂う背中を見せながら部員たちに30分の休憩を言い渡している。
こちらが申し訳なく頭を下げると、「もういいから30分を守って」とフラフラ音楽室から立ち去って行った。失意のあまり、階段から落ちないといいのだが。
「さーぁ!みくるちゃん!こう、色っぽくピアノを弾いてちょうだい!」
色っぽくピアノを弾くって、どういう仕草なんだ?お前にはできるのか?涙目になっている朝比奈さんに痺れを切らして炎を吐きそうなハルヒを尻目に、俺は音楽室に特有の段差に腰を下して、通常の教室よりもでかい黒板をぼーっと見つめていた。
いつの間にか朝比奈さんと席を代わった長門が、クラシックCDのようにピアノを弾いている。これ、音楽の授業で聞いた記憶があるな。
「シューベルトの魔王ですね」
……なぜその選曲なのか聞いてみたい気もするが、恐ろしいので止めておく。クラシックに造詣が深いわけではないが、あまり好きになれない曲調でもあった。
「そうですか?僕は結構好きですけれど。特にWillst, feiner Knabe, du mit mir gehn?の部分なんか」
はっきり言っておこう。俺は母国語としている日本語だって勉学中の身であり、無論英語もそうだ。二ヶ国語でもアップアップしている一般高校児に、独逸語なぞ分かるかと突っ込みたい。
「おや?ドイツ語だとお分かりになりました?」
魔王を作詞したゲーテはドイツ人だろ。それは音楽の時間に習ったので、なんとなくそうかなと思っただけだ。
「全く以てその通りです。意味はお分かりになりますか?」
分かるか。そんなもの。魔王の作詞家の名前を覚えているだけで、俺の脳みそとしては御の字だ。
「そうですか?ではWilt go, then, dear infant, wilt go with me there?」
ドイツ語が英語に変わったところで、分からんものは分からん。日本人なら日本語で話せこの野郎!それともあれか!?お前は馬鹿と議論するな。傍目には、どっちが馬鹿かわからないという英語の格言に則り、俺とは日本語で話せないとでも抜かしたいのか!
「まさか。そうですね、英語の格言ならばLove is blindと申し上げたいところですが」
これは英語力が平均値よりも下回る俺にも、理解できる英単語だった。しかし、理解したくなかった。とても気持ちが悪い。古泉の口から、俺の耳元に囁かれるとな!そういう美しい言葉はな、廊下からこちらを窺っている吹奏楽部の女子高校生にでも言ってやるべきだろう!そして俺も言ってあげたい立場に属している男子高校生だということを忘れるな。
「なるほど。外国語というのは難しいですね」
難解なのはお前の脳味噌の方だ。そのときタイミングがいいのか悪いのか、ハルヒが古泉を呼んだ。古泉はするりと立ち上がると(まるでスポットライトが当たっているかと錯覚するほど、古泉はスマートに立ち上がった)、俺を見下げにっこりと笑った。
「Absence makes the heart grow fonder。僕はいつも、閉鎖空間に向かうとき、そう願っているんですよ」
外国語の講釈はまだ続いていたらしい。最後の格言を言い残し、古泉はハルヒの元へと走って行く。教室だから歩いてもすぐに辿り着くだが、あれはあいつのポーズなんだろう。すぐに駆け付けたいという。
お前はなにを捨てても駆け付けるべき存在があるのに。言い残していった言葉が滑稽過ぎて、俺はむっすりと眉を顰めるしかないじゃないか。ウソつきが本当のことを言っても、誰も信じてくれないんだぞ。
離れているほど、いとしいなんて
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05. 右手はただの手のひらなんだよ
いつもの教室で、ガヤガヤとうるさい喧噪の中。俺はだらりと椅子に腰かけて、本鈴が鳴り教師が教室に入って来るのを待っていた。その後ろでは、寝そべるように我らが団長様が机に懐いている。
あからさまに沈んだハルヒの表情を見るのは、初めてだった。こんなに落ち込んでいたら、閉鎖空間が発生してしまうんじゃないか。そんな俺の杞憂は無用のものだったらしい。ハルヒはちゃんと納得している上で、落ち込んでいるのだ。理性が感情の手綱をしっかりと握っていた。
「あんなに……元気そうだったのに」
ぽつりとハルヒが呟く。表情を見ることは叶わないので、俺はじっとハルヒの渦巻きを眺めた。
文化祭前、映画撮影に走り回る俺たちに、地元の商店街の皆さんはとても気さくに話し掛けて下さった。惜しみなく協力もしてくれたし、たまに差し入れと表してお菓子やジュースをくれたりする人もいた。
最近ずっと立っているのがつらくて、だから座ったままでごめんなさいね。ある古本屋の(拡大を続けるチェーン店の経営ではなく、個人が切り盛りするこじんまりとした名の通りの、古本屋だ)お店番をしていたお婆さんは、そう言って笑いながら昔懐かしの煎餅を俺たちに一枚ずつ、配ってくれた。
久しぶりに味わった醤油味が、ハルヒに扱き使われ荒みきっていた俺の心情にホロリと沁みたのは、言うまでもない。朝比奈さんも嬉しそうに笑っていたし、長門も無表情だったが美味しそうに食べていた。ハルヒも「お婆ちゃん話が分かるわね!」と頻りにはしゃいで、古泉はどうしていたかは……よく分からん。見ていなかった。
とにかく、笑顔が印象的なお婆さんだった。あれから商店街を通る度、笑いながら手を振ってくれる姿が目に焼き付いている。最近、見かけないなと思っていたら、どこから聞き付けて来たのか、ハルヒがお婆さんは入院しているのだと、教えてくれた。
「あんまり思わしくないって、言ってたわ」
実年齢は失礼にあたるかと思い聞いていないが(年齢を重ねたといっても、女性に聞くには非常に難儀な質問だ)、そろそろひ孫が生まれると聞き及んでいたので、かなりの齢であることは確かだ。だから、仕方がない。ハルヒも納得している。俺だって。
「ねぇ、キョン。バン・ジーって知ってる?」
机に伏せたままの団長様の声は、くぐもっていた。俺に教養を求めるな。聞き慣れない横文字に顔を顰めると、ハルヒはワザとらしく溜め息を吐いた。
「知らないの?まったく、使えない奴ね」
憎まれ口はいつも通りだが、覇気が無く、沈んでいる。聞いてきたはいいが、説明するつもりはないのだろう。「あとで有希に聞くと良いわ」と言って、それ以降、ハルヒが口を開くことはなかった。
「バン・シーとはアイルランド地方、及びスコットランド地方に伝わる女の妖精。別名でベン・シー、ベン・ニーアなど、他にもたくさんある」
放課後、落ち込んだハルヒは、SOS団の活動にも乗り気になれなかったらしい。顔は出したがすぐに解散を宣告し、朝比奈さんを連れて帰ってしまった。あれはきっと、見舞いに行くつもりだな。
ハルヒの行動に怪訝そうな表情を浮かべる古泉を放って、俺は長門に問い掛けてみた。バン・ジーのなんたるかを。
「バン・シーの泣き声が聞こえた家では、近いうちに死者が出るとされる。諸説語られているが、泣き声が聞こえる時は、その姿は見えない。また、複数のバンシーが泣いた場合は、死者は勇敢な、」
あー、もういい。長門、もういいから。ありがとうと、俺が必死で止めると、長門は「そう」と頷いて読書に戻った。たくさん語られても、あまり意味がなさそうだ。ハルヒが言いたかった部分は、おおよそ聞けたような気がする。
「バン・シーですか。長い黒髪で緑色の服に、灰色のマントを着た女性、これから死ぬ者のために泣いているので、目は燃えるような赤い色をしている。これもいろんな説がありますが、若い女性の外見のときもあれば、醜い老婆の姿をしているときもある。……近々、亡くなるお方に心当たりでも?」
どうして俺の周りはこうも博識な奴ばかりが揃っているのだろう。それとも俺が浅識なのか、溜め息を吐きながらも、商店街の古本屋のお婆さん、とだけ俺が呟くと、一を知って十を理解したらしい。ハルヒの落ち込みも俺の話題もすべて納得できたと、古泉は腕を組んだ。
「閉鎖空間は今のところ発生していません。涼宮さんは悲しみを感じてはいますが、それが生命の常と理解なさっているのですね。……しかし、バン・ジーの話題が出たとすると」
そこまであいつも、こんな話を信じちゃいないだろう。所詮迷信だ。遠い異国のな。
古泉は眉をハの字にしながらも、微かに笑った。本当にお前の表情筋は器用だな。呆れつつ席を立った俺に、古泉も合わせて帰るようだ。長門は本から顔を上げようとしなかったので、鍵を任せて部室を出る。どうやら俺もそれなりに落ち込んでいるらしく、だらだらと部室に居残る気にはなれなかった。
しかし死神みたいだな。バン・シーってのは。要は死の宣告のようなものじゃないか。通学路を歩きながら言葉を零した俺に、変な所で付き合いの良い古泉は苦笑を浮かべた。気が付いたんだが、なんでお前と俺は当然のように、連れ立って一緒に帰っているんだろうな。別々に帰ってもいいだろうに。
「あなたが思うほど、バン・シーは怖い存在ではありません。悪魔ではなく、妖精ですから。僕があなたに連れ添っている理由は……まあ、保険と申しましょうか」
連れ添っているとか、気持ちの悪い言葉のチョイスをするな。
「ふふ、申し訳ありません。バン・シーは「悲しみの洗い手」とも言われ、死の近づいた人間の衣服を洗うのだそうですよ。赤い目で涙を零しながら、一心不乱に衣服を洗う醜い老婆。それを妖精と言うのですから、概念の違いとはなかなか面白いと思いませんか。死の間際にそんな姿を見せられた人間は、ゾッとするでしょうけれどね」
三枚のお札に出てくる鬼婆よりはマシだろうよ。包丁を研ぐ音を聞くよりは、洗濯の水音の方がよほど心穏やかでいられる。
そうして公園へと歩みを進めた俺たちは、何かを予感していたのかもしれない。俺は何事もなければそれでいいと思っていた。だが、「保険」と言っていた古泉は、何かしらの確信があったのか。
緑に囲まれた、夕暮れと夜の隙間。一番交通事故が多い時間帯だ。世界は黒というより灰色に近く、目を何度も瞬いても明順応がうまくいかない。そんな曖昧な世界だった。
ゆらりと揺れる影が人間じゃないと分かるのは、俺があまりにも奇天烈な現象に巻き込まれ過ぎたせいだろうな。世界は灰色なのに、影が纏う衣服は緑色なのがはっきりと分かり、隙間からのぞく腕は枯れた木のようにみすぼらしく細かった。
泣き声は聞こえず、動作の音もしない。そこだけが異空間で物々しく、おぞましい色合いをしている。隣で古泉が緊張する気配がした。さっきバン・ジーは恐ろしい存在じゃないと言っていたくせに、矛盾しているのがどこか可笑しかった。俺も結構場慣れしてきた証拠かね。
老婆の手は衣服を洗っているのかもしれない。水辺はここにないけれど、彼女の足元にはあるのかもしれない。俺たちには見えないだけで。通常の空間から切り取られた世界で、時間の感覚は失せ、俺たちは黙ってその光景をジッと見守っていた。
ふと、彼女の動作が止まる。ゆっくりと影がこちらを振り向こうとする。咄嗟に古泉は庇うように前に出て、俺は古泉の肩越しに彼女を見た。
しわくちゃの顔に、血のような赤い目、長い黒髪は乱れ、ぐちゃぐちゃになっていた。その様子を見ただけで、俺は何かがストンと落ちていくような気がした。なんだ、簡単なことじゃないか、と。
古泉の後ろから飛び出して、俺は駆け寄った。古泉が引き止めたような気がしたが、俺は頓着しなかった。目に入っているのは幻惑で、近寄ったら消えるかもしれないと思ったが、老婆はそこに屈んだまま身動ぎもしない。ただ合わせたままの視線だけは、俺を追いかけてくる。
地に付いていた荒れた指先を、俺は静かに握った。冷たくなかった。むしろ田舎の婆ちゃんと手を繋いだときのような、あったかい感触がした。ほら、やっぱり簡単なことだったんだ。
泣かなくて、いい。あのお婆さんはひ孫が見れたって、思い残すことはないって、いつ逝ってもいいと笑ってた。だから、あんたは泣かなくてもいい。お婆さんが笑ったまま逝けるように、このままそっとしておいてくれ。お婆さんにもお婆さんの周りの人たちにも、死を伝えないで欲しい。……駄目か?
無理で元々と思って、俺は言ってみただけだった。言葉が通じるのかもわからん。外国の妖精と言っていたが、そこが例え英語圏だろうが俺にはお手上げだ。だから堂々と、俺の母国語で話した。
このバン・ジーはハルヒが思い願ったものかもしれないが、どうすれば消えるのかなんて、予想もつかなかった。でも、あのお婆さんはこんな妖精が身近にいたら、きっと驚いてしまう。そう思っただけだった。
老婆はひとつ瞬きをした。目尻に溜まった涙がポロリと零れ落ちて、それが地に落ちていく。不思議な空間にも重力は存在するのかと、俺が余所事を考えているうちに、それは起きた。そう、瞬きの間に。
彼女の涙は止まった。残るのは頬を伝った水分の跡だけで、俺が手を伸ばしてそれを拭うと、彼女は子供のようにふわりと笑った。そしてまた俺が瞬きをしているうちに、消えた。そう言えば、古泉が言ったばかりだった。老婆の時もあれば、若い女性の時もある、と。まさかそのどっちもだなんて、想像もしていなかったが。
「……、……驚き、ました」
俺の台詞を奪うなと、ついつい突っ込む。先に言われてしまったら、俺の中のサプライズはどこに吐き出せばいいんだ。お前も大層驚いたかもしれんが、俺だってかなり驚いているんだぞ。
「そんな風には……思えませんが。とても堂々としてらっしゃいましたよ」
古泉は俺の傍に寄って来ると屈んで、周りを見渡した。ただの公園の一角、雑草が欝蒼としているだけの、日常的な光景が広がっているだけだ。
「バン・ジーの醜い姿から目を逸らさずにいた者には、彼女が願い事を叶えてくれるんです」
なるほど、だから泣き止んで、姿も消してくれたわけだ。ハルヒの奇天烈能力には辟易するが、ある一定の法則が存在する辺りに、あいつも律義な性格をしているんだなと俺は天を仰いだ。灰色の曖昧な時間は終わり、すっかり夜だ。雲の隙間から微かに星が見える。
「あなたは、怖くなかったんですか?あの姿が」
咄嗟に俺を庇って前に出た人間の言葉とは思えないな。古泉を見遣ると、真剣な眼差しで俺の手を握った。まるでさっきの老婆に、俺が差し伸べたときのように。
「恐ろしい姿だと、僕は思いました。現に、立ちはだかりはしたけれど、自分から近付こうなどと思いもしなかった。なのに、あなたは……」
俺は笑い出しそうになった。最初はもちろん、怖かったさ。恐ろしいものだと感じた。けれど、バン・ジーは悪魔ではなく妖精なのだとお墨付きを貰っていたし、何よりも彼女は、ただ人の死が悲しくて泣き叫んでいる存在だった。あんなに美しい外見が、しわくちゃの老婆になるくらいに悲しんでいただけの。怖いとは、とてもじゃないが思えない。
「……あなたは、勇気ある存在です」
そして、古泉は握っていた俺の手を持ち上げると、そっと口付けを落とした。気障な騎士が、お伽話の姫に施すそれのように、恭しく。
「勇気あるあなたの右手に、祝福を」
俺が気色の悪さに呻き声を上げたとしても、誰も責める謂われはないだろう。思いっきり振りほどいてやりたいし、蹴りの一発もお見舞いしてやりたいところだ、だが。
さて、古泉の言うところの「勇気ある」俺だが、腰が抜けて動けないんだといつ切り出そうか。俺はしばし、古泉の前で途方に暮れてしまった。正直に白状したら、こいつはどんな反応をするのかね。
まあ、笑みを浮かべる、これだけは確実だろうけどな。
右手はただの手のひらなんだよ
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06. 断固拒否!
俺は常々、感心する。顔の良い奴ってのは、どの角度から見ても良いのだ。横からだって斜め上からだって、ぶっちゃけ後ろから見ても、ああこいつ、顔がいいなって思う。顔がいい奴はなぜかこう、背中からもオーラを放っている。もちろんそれは、言わずもがな、正面からも。
ハルヒはあの口と行動力さえなければ美少女と言っても差し支えない奴だし、朝比奈さんは性格と体を含め、非常に麗しいお方だ。長門もかわいい。窓辺で本を読む物静かな少女は(正体が宇宙人だと知らなければ)ついついクラスで話し掛けたくなるキャラクターだろう。
みんな、どの角度から見てもそりゃあかわいらしい。賛辞を惜しみなく贈ってやれるね。俺の価値観だけじゃない、それは周知の事実だからだ。谷口に言わせれば、みんな「A」に該当するランクだしな。
SOS団の団員達は、唯一の例外は俺くらいで、ハルヒが顔で選んだんじゃないかって疑われるくらいに、みんなそれぞれの個性的な美を兼ね揃えているわけだ。例外は俺一人、つまり目の前で驚いているこいつも当然、顔立ちが整っている。
しかし、ポカンと口を開けた間抜け面すらも良いとは少し、不公平だと文句も言いたくなる。お前が不細工になる瞬間があるのだとしたら、ぜひ見てみたいよ。多分ないんだろうけどな。
「いえ、その。まさかあなたからそのようなご意見を頂けるとは、思ってもいなかったので」
なるほど。お前の中の俺が更新されて、大いに結構じゃないか。俺は綺麗なものには綺麗だと、ちゃんと客観的な評価が出来る男だ。内心こいつは食えず、煮え切らず、腹に一物抱えているいけ好かない奴だと思っていても、お前の顔立ちがいいという事実は変わらんし、良いものは良いだろう。
「……光栄と……存じますが。あなたの中の僕はそういう人間なんですね」
がくりと落とされた肩を見ても、不満を受け付けるつもりはない。そういうキャラ作りに精魂掛けたのはお前だし、俺の中の主観まで指図を付けられる謂われはないからな。
「まったくもって、その通り、ですね。僕の方からはあなたに、何かをいうことはできません。ですが、」
恋人の前でクリスマスプレゼントを勿体ぶる男のように、古泉は両手を広げ肩を竦めた。はっきり言って気障な仕草だが、似合うのだから顔の良い男は得をしている、そして俺の敵だ。恨みつらみが増すぞこの野郎。
「僕にも、あなたのことをどう思っているのかお伝えする機会を頂きたいですね。僕に対しての評価をお聞きしたお礼にでも」
ほーう、それは随分と興味が湧いてくるね。古泉の中の俺。こんな話題が二度も三度も巡って来るとは思えない。ぜひとも拝聴させて頂こう。
「ふふ、ありがとうございます」
そして慇懃に頭を垂れた古泉が、あまりにも俺を真っ直ぐに見つめるので、俺はちょっとだけドキリとした。ここまで格好良い奴(こんな言葉を用いるのは腹立たしい限りだが)に真剣な眼差しで見つめられると、女の子だけじゃなく男まで胸が高なってしまうのだから、美醜と言うのは恐ろしい。
谷口辺りがやったところを想像してみても、どんな道化だと笑いしか浮かんで来ないだろう。思考を斜め45度ほど傾けている俺などには目もくれず、古泉は滔々と語り出した。お前もそう言えば、あんまりこっちの都合に頓着しないよな。喜べ、俺の中のお前も良い感じにマイナス方向へ更新されたぞ。
「あなたは、長男だからでしょうか。とても面倒見が良くて、物臭を装っているけれど、実は思いの他マメで、あと、面食いですよね。今日、理解を含めました」
綺麗なものが嫌いな奴は存在しないと思う。宇宙人に綺麗と言う概念があるのかは謎だが。
「手とか、いつも温かい。なのにふっと冷たくなるときがあるので、握り締めたいと思わせる。怠惰なように見せかけて、正義感に溢れている。責任感が強すぎると、たまに思います。だから、支えなくてはと。僕は任務に関係なく、思ってしまうんです」
だんだんと筆舌し難い思いに、俺は捕らわれ始めていた。てっきりこいつはハルヒの不思議能力のことを織り交ぜながら、俺を責めると思っていたからだ。やれ、ちゃんとハルヒを尊重しろとか、あまり不機嫌にさせるなとか。どうして俺は、もぞもぞと尻の座りの悪い気分になっているんだ。
「あなたはご自分のことを平凡な顔立ちと言いますが、そんなことはけしてないと思いますよ。とても、整っている。まあ、僕の主観を多大に含んでしまっているので、客観的な評価とは言い難いのですが。表現し直すのであれば、僕好みのお顔をされています。体形もいい。だらけたフリをしていますが、あなたは基本的に姿勢が良い方です。スラリと立ってらっしゃるときの存在感を、あなた自身にお見せできないのが残念なくらい」
なんだろう、これは。なんの告白大会だ。そう、俺はようやく、古泉の発言の数々がこっぱずかしい告白と同義なのだと気が付いた。くそ、もうちょっと早く気が付いておけば、こんな状況になる前に古泉節を止めることが出来たのに!
古泉の真剣な眼差しは揺るがず、俺はそこから視線を外すどころか、指先すらも動かせないくらいに凝り固まっている。こう表しちゃ身も蓋もなく情けない限りだが、射竦められていた。
「とても、素直なお方だ。お優しい、そして」
フッと古泉が視線を緩める。あ、こいつ、いま。笑ったんだ。素直に思う、格好良いなと。
「かわいい」
顔がふいに近づいて、俺の間近まで迫った。ふわりと届いた香りは古泉のコロンだろうか。そんなものをつけていたなんて、こんな距離になるまで気が付かなかった。当然だ。だってこんな近くまで来たことなんて、今まで一度も……、って!うゎ!!危ねぇ!
危ういところで俺は古泉の顔を押し返した。このままでいけばあいつは俺の顔の真正面に鎮座あそばし、お互いの突き出している部分が触れ合うことになっていたぞ!鼻を器用に避けるスキルはどこで習得したんだこの似非超能力者!
「これはこれは……もうちょっと、言葉を並べるべきでした。あと一歩でしたのに。惜しかったな」
飄々と言ってのける古泉の肩を殴るように突き飛ばしながら、俺は叫んだ。そんなフラグ、全力で圧し折るに決まっている!
断固拒否!
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07. 雨は涙に似ているね
先に結論から述べよう。俺は雨が嫌いじゃない。
そりゃあ湿度が高くなると不快だし、母親が洗濯物が湿っぽいとぼやくし(だが、文明発達により現代社会では乾燥機という恩恵がある。それだけで感謝するべきだと思うのだが)、堪忍袋の緒が平均よりも短い人間には(どれくらいが平均の長さなのかは計り知れんが)苛々を助長するだけのもの、ということは分かる。大いに同意しようじゃないか。
じゃあなぜ俺は雨が嫌いじゃないのか。俺は雨が降ると外に出て、傘を差しながらふら付くのがいいと思う。土砂降りのときは辟易するが、雨水の重さを感じるとなんだが楽しくなってくるのだ。
こんな性分、嵐の日に目を輝かせる子供と同様に、ガキ臭いと思われるのは百も承知である。だから俺はひっそりこっそり雨を楽しむ。
さて、前置きが長くなった。台風の接近に伴った雨雲のせいで、だらだらと長く雨が降り続ける日が続いている。俺は非常に外を眺めるには有意義な日々を過ごしていたのだが、後ろの席に腰掛ける団長様は顔を見るたびに眉間の皺を深く刻んでいた。
「ものすごく不愉快だわ!なんにも出来ないじゃないの!!」
苛立つなとは言わない。怒るなとも、そんな無駄なことを俺は言わない。だがこれだけは言わせてくれ。だからと言って俺の椅子を蹴るな。
「あんたの椅子を蹴る以外にできることがないのよ!黙って蹴られていなさいよ!」
あー、もう。好きにしてくれ。こんな時のハルヒに何を言おうが、怪獣の火炎放火並みの返答しか来ないことを俺はとうに自覚している。早々に匙を投げて、俺は席を立つ。
「なに、なんか文句あるの」
俺は首を振って、前方にそびえ立つ黒板を見つめた。でかでかと「自習」と気持ち良く書かれている。これ以上天候が崩れるようなら生徒を帰した方がいいかもしれないと、緊急の職員会議が入ったのだ。雨空と朝の天気予想図を比較してみるに、これ以上の授業はない。
「ちょっと、キョン。どこに行くのよ!」
団長様の声に、ガヤガヤと喚いていたクラス全員の視線が集まってしまったので、俺は遠慮がちにお茶を濁した。お花摘み、と。
こうして無事魔王の手から脱出した俺は、堂々としたサボりと言われないよう、それなりの策を用意している。自習なのだから図書室にいて何が悪い。まあ、教科書も持たず棚から本も取り出さずに、やる気がないことこの上ないが。
本に被害が出ないよう、棚からかなりの距離がある窓を全開にして、ぼんやりと傍の机に寄り掛かった。大きい雨粒は入って来ないが、さすがに風が強い。霧状になった水滴と湿度の上がった空気が、すぐに肌に感じられた。
雷鳴も届かないほどの遠くで、光が空と地上を繋いでいる。きれいなもんだと、見つめ続けていた。
だからいきなり肩を引かれたときは心臓が口から飛び出るかと思った。外に夢中になっていたせいか人の気配など、まったく気が付かなかった。つい変な雄たけびを上げて振り向くと、息を切らせた古泉が肩ごと腕を引いている。
「びっくりしたのはこっちですよ!なに身を乗り出してるんですか!」
珍しく慌てているのは、俺がいつの間にか窓際のギリギリに立っていたかららしい。おい、変な勘違いをしてくれるなよ。
「勘違いはしませんけどね。危ないじゃないですか。水って結構滑るんですよ」
それは確かにそうだと俺は頷くと、窓辺から身を離した。しかし古泉は動こうとしない。手も離そうとしない。そうするとどうなるか。
1−1=0。より密着することになる。おい、近いから近いって近いんだよ!
下がれない以上、こいつを後ろに追いやるしかない俺は両手に渾身の力を込めた。古泉の肩を必死に後ろへと押すのだが、この野郎。何笑ってやがる。
「あなた、全然力が入ってませんよ」
そんなわけあるかと怒鳴ろうとしたとき、後ろでパタンと窓が閉まった。何事だ、ついに古泉が閉鎖空間でもないのに超能力を使えるようになったのかと振り向くと、なんのことはない、白くて小さな手のひらが窓にカギを掛けている。
「あなたの体温は著しく低下している、特に手のひら。そのため常態での行動が不可能」
「ここの前の廊下でばったりお会いしまして。目的は同じようでしたので、ご一緒したんですよ」
……まったく気配を感じなかったのは、きっと一人が超能力者でもう一人が宇宙人だからに違いない。そうに決まっている。
長門は古泉を引き剥がそうとしている俺の前まで寄ると、懐から真っ白な布を取り出した。俺は額を拭われて、ようやくそれがハンカチだと気が付き、ついでに瞼まで水滴を掬われる。
「気が付いていないと思ってはいたんですが。あなたすごい濡れていますよ。そりゃあもう、びっしょり」
せっかく長門が拭いてくれた頬に、またこめかみから雨が滴り落ちて来た。顎を伝って落ちていく様に、確かにこれじゃあ濡れ鼠だなと苦笑が浮かんでしまう。
また拭おうとする長門に無駄だと遠慮するが、ハンカチを握った手のひらは、頬から顎までをもうひと往復した。頭を先に拭かんと意味がないのだから、気にしなくてもいいんだが。
「似ているから」
手を動かし続ける長門の表情は微動だにしなかったので、俺は彼女の言葉のみで何に「似ている」のかを想像しなければならなかった。目尻を伝う雨水が目の中に入って、何度も瞼を瞬く。
「ああ、確かに」
顔を覗き込んできた古泉が合点が入ったと、にっこりと微笑んできた。野郎の笑顔を至近距離で拝んでも、気持ちが悪いだけだ。
「大人しく拭いて貰っていてくれた方が、僕としても嬉しいですね」
腑に落ちないが、長門がジッと見つめてくるので、俺は大人しくその指に任せた。ハンカチの感触はとても優しいもので、高校生男児としては魅惑のハニー、彼女が出来ないことには味わえない至福だったので。
しかし五分後、俺が背後に纏わりついていた古泉を蹴り離したことで、癒しの時間は終わってしまう。何が「首にも伝い落ちていますよ」だ!こ、こいつ……!な、な、な、舐め……!!これ以上は俺の脳が拒絶反応を起こした。
首筋を乱暴に擦っていると、そっとブレザーの裾を引かれて、俺は顔を上げる。
「次、誘って」
長門はまだ濡れる俺の額を拭ってから、窓の向こうに視線を向けた。
「雷」
窓の外、雷鳴の轟いたいた方には少しの晴れ間が覗いていた。雲の隙間から差し込む陽の光に、嵐の息がもう長くないと知る。残念だなと溜め息を吐くと、古泉がいつもの似非臭い笑顔を浮かべて口を開いた。
「雨は空の涙、とも言いますね。今度は僕も是非」
長門と一緒に見ることは吝かではないが、お前は絶対に誘うものか。なんでこいつはまた近付いているんだと、疲労とともにその体を引き離した。
額から落ちた雫は冷たくなく、体温に温くなってどこか優しい感触がした。
雨は涙に似ているね
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08. 覚悟はいいか
言い分はよく分かる。男のロマン、というものは、女性にとっては鼻で笑ってしまうような下らない内容でも、同じ男の目線では非常に垂涎で重々しく、ついつい喉を鳴らさずにはいられないものなのだ。
ハルヒに言ってみろ、鼻で笑うどころではない。きっと眉を顰めて「サイッテー!!」と団長の三角錐が飛んでくるかもしれん。いや、朝比奈さんのメイド萌えが分かるあいつのことだから、もしかしたら身を乗り出して興味を示すかもしれないけどな。
とにかく、お前の言い分は同性の俺にとっては、しっかりと頷くことが可能なくらいには理解を示すことが出来るし、俺だって見たい。ああ、やって欲しいものだ。
おい、なにそこで頷いているんだ。いいか、重要な部分は「やって欲しい」というところだ。俺はお前と同じ男なんだぞ。知ってるって?そりゃ有難いね、有難過ぎて涙が出てきそうだ。
ならばお前だって俺の言いたいことが理解できるだろう。同じ男で、男のロマンだって同等の価値を見出す俺は、そのロマンを見たい分類に属していることを忘れてくれるな。それも分かっている?本当かね、疑わしい。
「そんなに、信用がありませんかね」
ないね、この件に関してはこれっぽっちも。お前、自分の発言を振り返って見ろよ。順序良く。
「確か、僕とあなたは女性の魅力的な面についてお話していました」
ああ、そうさ。突風にスカートを抑える仕草とか、身長差につい上目遣いになってしまう目線とか、長い髪をまとめたりする動作にはものすごくこう、グッとくるよなと俺たちは話していた。俺たちにしては珍しく、男子高校生らしい非常に健全な内容だった。
「そして僕は、家に帰って来た瞬間に「おかえりなさい」と言ってもらえるのも嬉しい、と申し上げました」
その通りだ。お袋や妹に言われるのはともかく(これはこれでとても恵まれていると、口に出さないけれど俺は自覚している。こいつに会ってからは)、恋人に言われるそれは段違いに甘いものに違いない。萌えるな、うん。俺も激しく同意した。
「ぜひともそのあとに、「ご飯にする?お風呂にする?それとも」と付け加えて頂きたいとも、言いましたね」
問題はそのあとだ。ターニングポイントである。
「あなたに」
みなさま、お分かり頂けたであろうか。俺がこいつの頭をかち割って、その中身を覗いてみたいと思った心境が。こいつの脳内は何かが間違っている。こう、ちょっと人の置き所が違う気がする。手を突っ込んで、こいつの脳の中の俺の位置を変えてやりたいと思っても、不思議じゃないと思うんだ。
「いつも反応があっさりしているあなたですから、そんなことをされてしまったら僕は間違いなく、第三の選択肢を選びますね」
本当に分かっているんだろうか。俺は同じ男で、第三の選択肢を選びたい側の人間であり、選んで欲しい側の人間ではないことを。
さて、俺の反応として。こいつの脳みそをかち割るくらいに鞄で殴りつけるか、それとも懇々と不可能だと説き伏せるべきか、俺のを見たいならまずお前が実践しろと脅すべきなのか。
俺としては、持ち帰ろうと思っていた辞書が二つ入っている鞄の威力を試してみたいところだ。
覚悟はいいか
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