ヘタファンじゃないRPG

01. プロローグ
02. エステニアへ
03. いけ好かない男
04. ドリア炭鉱


※ヘタリアファンタジアとはまったく繋がりがありません。
※オフラインで出した本のサンプルです。そちらで完結しました。
※元ネタのRPGが分かったらお友達になってください。
※▲でここに戻ります。













  01.プロローグ

「世界の理には想像を絶する力が存在している」
 物語はいつも、その言葉から始まった。
 静かな夜の帳が降りた室内は、外のひっそりした空気が隙間から漏れてきているせいか、何もかもがゆっくりとしている。
 そんな緩やかな世界の中では、養い親がページをゆったりとめくる動作もやけに大きく感じられた。
 暖炉や、ランプの細い火が照らす部屋で、一番大きく見えるのはテーブルや棚ではなく、床や壁に映る自分の影だった。影の大きな隈取りは真っ黒な世界を浮き彫りにする。養い親の小さな動きが印象深く目に入るのも、そのせいかもしれない。
「かつて、地上には楽園があった。双子の神と徳の深い六人の神官が治める、豊かな土地だ」
 動物たちも息を潜める夜の暗闇は苦手だ。早く地平線から太陽が顔を覗かせて、明るくなればいいのに。
 その反面、頼りない明かりしか存在しないこの時間を、こよなく愛してもいる。日中は狩りや釣り、畑の世話に追われて忙しくしている育て親が、隣でのんびりと座っていてくれるときでもあるからだ。
「双子の神は優しく、強く、聡明だった。人は双神を心から愛し、彼らも人を心から愛した。彼らは人に美しい空を与え、住み心地の良い大地を与え、大いなる知恵を与えた。神からの恩恵を授かり、多くの人が幸せに暮らした」
 夜は視界が悪く、足も速くない人間が夜行性の獣に襲われたら、ひとたまりもない。育て親は口を酸っぱくして自分に夜間の外出を禁じていたし、彼自身も夜は固く扉を閉じて、たまに近くの井戸に水を汲みに行く以外は、椅子に腰かけて緩やかに朝の訪れを待っていた。
 自分に本を読み聞かせながら。
「でも――」
 彼が毎日のように読んでくれる本はとても古いもので、ページに書かれている文字は市場や教会で見るような文字とはまったく形が違う。「昔の言葉なんだ」と教えられたが、養い親はすらすらと読み進め、声に出して発音すら出来た。
 練習中の身分としては養い親が発音する歌のような言葉はとても不思議で、神秘的に見える。昔、彼にも伝授してくれた人がいると言っていたが、そのときに養い親も今の自分と同じ感情を覚えたりしたのだろうか。今度聞いてみようと思った。
「でも、災いが訪れた」
「わざわい?」
 今夜読み進めているページは新たな部分で、昨日まで聞いていた『楽園』の土地があれからどうなったのか、という場面らしい。
 新しい章に身を乗り出す幼子を諌めるように養い親は真面目な表情で頷く。
「災いは地上に溢れ、楽園に暮らす人々は逃げ惑った。双神と六人の神官たちは、災いを葬るために立ち上がったんだ」
 パキンという乾いた音がして振り向くと、燃え盛っている暖炉の中で黒と白に変化した薪が二つに割れていた。そろそろ追加のものをくべてもいいかもしれない。同じように暖炉に視線を向けていた育て親も同じことを考えたのだろう。そろりと立ち上がろうとした彼を押し止めて、自分が暖炉へ近付く。
 傍に寄るにつれて頬にはふんわりとした温かさが当たる。カラカラに乾いた薪の破片が手のひらに刺さらないように持ち上げると、もう何度も繰り返したように火の中へ放り投げた。薪は先に燃えて炭化した木片を押しつぶしながら炎にまかれ、先端から煙を吐き出し新たなぬくもりになる。
 冬でなくとも肌寒いこの地域は、夜になると痛いくらい冷たい風が吹き、霧が立ち込める。薪を絶やすわけにはいかず、暖炉の傍にある蓄えを見て、薪小屋から運んでおかなくてはとちらりと考えた。
 しかしそれも全部明日の仕事だ。陽が昇ってから考えればいい。今夜はもう、椅子に腰かけて本を読み聞かせてくれている育て親の声を聞いているだけでいい。忙しく駆け回る時間は終わったのだから、揺りかごの中で眠っている赤ん坊のように、優しい時間を感じていたい。
「ありがとうな、アル」
「ねぇ、アーサー。わざわいって悪いものなのかい?」
「そうだな。……存在していてはいけないものだ」
 暖炉から彼の隣、テーブルにふたつしかない椅子の片方に腰かけた自分の頭を、彼が優しく撫でてくれた。
「どこにいるの?」
「海の向こうの遠く彼方に。悪い魔法使いもそこにはいて、いまは眠っている災いを再び起こし、人々を苦しめようとしているんだ」
 ご飯を食べているときは向かい合っているけれど、話をしたり聞いたりするときはなるべく椅子をくっ付けている。そうしないと繊細な動きをする彼の両手をしっかり見つめることはできないし、きれいな輝きを放つ瞳も見難いからだ。
 太陽の下では水に潤う若芽のような輝きのグラスグリーン。育て親の瞳以上にきれいなものは、見たことがない。ランプの頼りない明かりでもその瞳はキラキラしていて、見たことがないけれど、宝石とはこれくらい美しいのではないかと思う。みんなを魅了して離さないくらいなのだから。
 彼の瞳はいつも、少年の目を捕らえて離さなかった。
「じゃあ俺が皆を助けるんだぞ! ヒーローになって、困っている人たちを救うんだっ」
 彼に引き取られてから、すでに数年の年月が過ぎていた。育て親は口うるさいところもあったけれど、とにかく愛情だけは出し惜しみをしない人なのだということはすぐに分かった。
 繋ぐ先がないのだと諦めた手を捕まえて握り締めてくれて、涙が滲んだときは懐に招き入れられた。
 風の音がうるさくて眠れない夜に強請った話は、童話からはかけ離れた幼子の寝物語には不向きの話であったのだけれど、しかし自分はその話に胸を躍らせ、結末に夢中になった。
 彼の家に伝わる古い話なのだと教えてもらったのはかなりあとになってからで、それすらも夢中になる要因にしかならなかった。
「アーサーのことも、絶対守ってあげるからね!」
 小さな家は自分たちが食事をするこの暖炉の部屋と、丸太を組み合わせて作った簡素なベッドが押し込まれている寝室の二部屋しかなかった。けれども、火の温かさも彼の声もどんなに小さなものでもすぐに届くし聞こえるので、自分はこの家が大好きだ。彼の気配が息を潜めるだけですぐに感じとれる。
 孤児院にいたときはもっと広い家ではあったけれど、たくさんの子供がいたので自分の時間も居場所もみんな共有しなければいけなかった。たまにお祈りに行く教会は広いけど静かすぎて、居心地が悪いし彼をすぐに見失ってしまう。どちらも帰るべき「家」にはなり得ない。
 ここは小さくて狭いけど、彼が自分の家族になってくれて「おかえりなさい」と迎えてくれる、自分の家だ。
「ありがとな。アル」
 ぽんぽんと撫でられた頭には、優しさと温かさと、幸せしか感じなかった。








  02.エステニアへ

「エステニアに行きたいんだ!」
 酒場の扉を開けた瞬間に叫んだ一人の客を、店主はすべての動作を止めて凝視した。瞬きすらも忘れた瞳は揺らぐことなくぎょっとして客を見続けている。カウンターを拭いていた布が店主の手からポトリと落ちて、床の上で体を広げ寝そべった。拾い上げたとしても、布を洗わなくては作業の続きは出来ないだろう。
「え?」
「エステニアさ。村の人に聞いたら、船のことはここに行けって言われたんだ」
 広くもないが狭くもない店内には店主と飛び込んできた客しかいない。丸テーブルがいくつかあったが、それはみんな壁に沿うように整列している。床にはバケツとモップも置かれていて、今は営業時間外なんだと知らせていた。
「そ、そうかい……いや、確かに夜になれば町中の船乗りがここには集まるからね。それはそうなんだが……」
 やけに歯切れの悪い言葉を続けて、店主は所在無さそうに頭を掻いた。「とにかくお座りよ」と勧められたカウンターのスツールへ、彼は腰を下ろしながらも「何か不都合でも?」と身を乗り出す。
 客の前にピカピカに磨かれたグラスがひとつ出され、それには礼を言って口を付けた。午後に入ったばかりの外の気温は高い。レモンを垂らしているのか、柑橘系の匂いがする水は爽やかな喉越しで体内へ浸透していった。
「お前さんのように船を探す旅人がよくここには来るよ。船乗りも紹介してやっている。だが……」
 店主は床に落ちたままの雑巾を拾うと、バケツの中へそれを放り込んだ。やはり言葉は尻切れトンボで終わって、言ってもよいものかと逡巡する間が感じられる。
「だが?」
 客が飲み切ったグラスを些か乱暴にカウンターに置くと、大きな音に店主はようやく決心してくれたらしい。重苦しいため息とともに顔を上げる。
「お前さん、知らないのかい。エステニアに行くのは危険だよ」
 噛んで含めるかのように勿体ぶって話す店主へ、彼はあっけらかんとして「なんだそんなことか」と笑った。店主は二度目の「仰天した!」という顔をして、まじまじとその笑顔を見つめている。
「もちろん知っているよ。エステニアが大変なことになっているって噂はさ」
 冒険者たるもの、風の噂には敏感でなくてはならない。それが今から向かおうとしている土地なら尚更のこと。
「この町はエステニアと最も交易が盛んだったところだ。あそこの話には事欠かなかったよ」
 彼はそう告げて手ずからピッチャーの水をグラスへ注ぐ。店主は口ごもりながら、目の前に座る自称冒険者をまじまじと観察した。
 彼は若かった。最近ようやく酒場の手伝いをし始めた己の娘と同年代か、それより少し上程度のものだと、毎日たくさんの人間を出迎え見送って来た店主は思う。
 港に行けば彼と同じような青年はいくらでも働いているが、そのほとんどは駆け出しの新米で、この客のような自信に満ち溢れた風情はなかった。
 彼には長い時間、一人で様々な土地を歩いてきた矜持があり、店主はその香りを敏感に嗅ぎとる。
「止めておきなよ、興味本位で行くような状況じゃない」
 自分が行くわけでもないのに、ぶるぶると体を震わせた店主は縋るような視線で若者を見た。
 エステニアは、この島国のすぐ隣にある大陸である。岸辺に行けば肉眼で確認できるほどその大地は近いが、海峡に隔てられたそこは船でしか移動できない。旅行客や冒険者は必ずこの港町に立ち寄り、輸入品も輸出品もここには溢れていた。
 それが今は閑散としている。理由はエステニア側にあった。
 エステニア大陸は、魔物が溢れかえっている。そんな噂と共に。
「あの噂を聞くようになってから渡った旅人は一人も帰って来なかった。交易船だって嵐で沈むようになっちまって……。何もいま行かなくてもいいじゃないか。大陸だったらアフロカに行くといい。あっちの交易船は変わらず出ているんだ」
 自信に満ち溢れ希望を持っている若者を、好きこのんで危険な場所に向かわせる道理はない。言葉を尽くす店主に初めは面食らっていた彼は、そのあと照れ臭そうに頭を掻いた。
「あなたはいい人だなあ」
 でも、引き止める言葉に耳を貸すわけにはいかないとも、彼は続ける。
「ただの冒険だったらいいんだけどね。どうしてもエステニアに行かなきゃいけない理由があるんだよ。それに俺はアフロカから帰って来たばっかりなんだ。もうあっちは行き尽くしちゃったんだよ」
 今度の旅は冒険だけではない事情があるのだと、固い決意を浮かべる彼に店主は思い止まらせることは不可能だと悟る。
「どうしても、いますぐエステニアに行かないといけないんだ」
 強い口調で言い切った彼を、店主は痛ましい視線で見つめていたけれど、細い息を吐いてから宿帳を手繰り寄せた。
「ここに名前を書いて。ここは一階が酒場だが、二階で宿屋をやってるんだ。今夜泊まってくれたら、船乗りを紹介しよう」
「ありがとうっ!」
 名前を書いていると店主はひょいっと肩を竦める。礼には及ばないよと。
「あくまで紹介だけだ。エステニアに渡るなんて剛毅な奴は、船乗りでも少なくなっているから、交渉は自分で頑張ってもらうことになる」
 書き終わった宿帳を回収した店主にペンも返しながら彼は笑った。伊達に一人で歩き回っていたわけではない冒険者は、店主がわざわざ紹介してくれる船乗りの意図を正確に把握していた。
「剛毅な奴の当てがあるってことだろう? それなら大丈夫、話術は得意なんだ」
 胸を張って笑うアルフレッドを、店主は呆れたような眼差しで見つめる。けれども、店主の苦味が入り混じった視線には若者の決心を揺るがす効果は、残念ながら含まれていなかった。










  03.いけ好かない男

「――悲鳴っ!?」
 両脇に広がる林の、どちらからだろう。耳を済ませて気配を探ると、もう一度か細い悲鳴が聞こえる。
(右だ……!)
 木の根や倒木を超えて走り抜ける。悲鳴の他にも枝が折れる音や、何かが倒れる音がこちらまで伝わってきた。
「――――っ」
 駆け付けたそこには、真っ黒な黒い影が何匹も見えた。いや、影じゃない。漆黒の毛並みを持つ 狼のようなものだ。
狼よりも鋭く長い牙が口元から覗き、だらしなく涎が滴っている。喉になど噛みつかれたら、ひとたまりもなさそうだ。そんな口の隙間から漏れ出る唸り声は地べたを這うように低く、ひたすら不快に耳に届いた。
「た、助けてぇぇ!」
 木と木の影に隠れて見えないが、黒い獣たちを超えた向こう側から、男の声が聞こえる。
「分かってる! 走れるならなるべく遠くに、体は伏せたまま逃げてくれっ!」
 叫ぶと「腰が抜けて……」という声が届いた。仕方なく、アルフレッドは銃を懐にしまう。標的を外すようなヘマはしない自信はあるが、敵の素早さが把握できない以上、飛び道具は使わない方が無難だ。流れ弾が助けを求めている人に当たったら目も当てられない。
 腰元に差してある短剣を鞘から引き抜くと、アルフレッドはジリジリと横にスライドする。
 一匹だけならば倒せるが、とにかく数が多い。暗い森の中でも光り輝く二対のまなこは、最低でも五つは見えた。多勢に無勢だ。
(敵前逃亡は好きじゃないけど、人命救助が最優先かな)
 合流したら森を抜けるのが最善だろう。
 ジリジリと距離を取っても、一番に傍にいる獣がその行為を無駄にした。呼吸を徐々に荒げながら、アルフレッドの隙を注意深く探っている。
(タイミングが重要だ)
 息を吸う。細く長く、肺へ、肺から血液へ、そして筋肉の隅々まで行き渡らせようにして、緩やかに吐き出した。
(一……二……三……)
 吐き出して、また酸素を取り入れる途中、息を止めてアルフレッドは思いっきり地を蹴った。敵がボールみたいに跳ね上がって、こちらに牙を向け襲い掛かって来るのが見える。
 かわしても反撃しても、他の獣たちに襲われる隙になる。駆けるスピードを極力殺さないように、アルフレッドは地面すれすれに上体を伏せた。
 一匹目が頭上ギリギリを抜けて行く気配、しかし隣を並走するような格好で二匹目が走っている。前方にも再びアルフレッドの懐に牙を向けようと待ち構えている獣がいた。後ろからはさっきかわした影が体勢を整えて追い掛けて来るはずだ。
 前で待っている敵が飛び上がり、体に噛みつこうと口を大きく開いた。牙をすれすれのところでかわし、その腹に構えた短剣を突き立てる。本物の狼と戦ったときとは違う、肉以上の固さがナイフを通して腕に伝わった。まるで皮細工の塊のようだ。
 なんとか腹を貫通させると、叫び声を上げていたそいつはぐったりと沈黙する。その胴体を刃から抜くと同時、横を走り続けていた獣に投げ付けた。
 ギャンっという声と同時、隣の草むらからの影は遠ざかる。
「うわあああああっ!」
 悲鳴がさっきよりもずっと近くで聞こえる。切迫感も増していて、アルフレッドは走るスピードをさらに上げた。
 視界を遮るように倒れている倒木を乗り越えたとき、追い掛けて来ていた影のひとつが、勢いを殺し切れずそれに体を叩きつけたのが見えた。
「こ、こっちだ!」
 必死な声に逸らしていた視線を戻すと、影のひとつに覆い被さられた人間の手や腕が見える。懸命に影の頭部を抑えつけているが、少しずつ距離が縮まっているのが分かった。
「いっち、にーのっ」
 走る勢いを殺さないまま、襲い掛かっている影に駆け寄る。
「さんっ!」
 振り上げた足をその腹に向かって思いっきり叩きつけた。思い通りに命中したキックは影を空中に浮かび上がらせる。
(この距離なら!)
 素早く懐から出した銃を構え、トリガーを引いた。影は衝撃でさらに奥へと吹っ飛び、草むらの向こうへ落ちて見えなくなる。
 それと同時、耳の後ろのあたりがピリピリとするように相手の殺気を捕らえた。
「うしろだ!」
(そんなの分かってるよっ)
 背後から頭上に降りかかって来ようとする、影の気配。しかし、アルフレッドの早撃ちに対抗するにはちょっと遅かった。
 もう一度森中に響き渡った銃声。地面に座り込んだままの彼――声で予想はしていたけど、やっぱり男だった――は呆然とアルフレッドの手の中の銃に見入っている。
「ほら立って! 走るんだっ」
 影の全部の動きを完全に止めたわけじゃない。アルフレッドはへたり込んだままの男の腕を力いっぱい握ると、後ろも見ずに全速力で逃げた。



「いだっ痛いっ! お兄さんの首がもげる!! いい加減離してええええっ」
 森を抜けて街道沿いをしばらく駆けていると、足元の方から泣き喚く声が聞こえてきたので、アルフレッドは歩みを止めた。
 「ぐっ」とか「ぎゃっ」という呻き声はさっきから頻繁に聞こえていたが、敵は四足の俊足を持っている。足を止めてやることが出来なかったけれども、さすがにここまで来ればあの狼みたいな影が追い掛けて来ることもないだろうし、例え追い掛けて来たとしても、すぐに目に付く。
 背後を振り向けば、遠く向こうに抜け出してきた森が見えた。視界は良好で、自分以外の姿は見えない。
「ひ、ひどい目にあったぜ……」
 地面から声が聞こえるなんておかしいな。その前に、手を引いてきたはずの男はどこに行ったんだろう。
 アルフレッドが首を傾げていると、またもや地面から声が響いた。
「いやいや気が付こうよ! それともわざと? わざとなの!?」
「わざと?」
 よく見てみると、掴んでいたと思っていたものは腕ではなくもっと長いものだった。単純に言うと。
「足?」
「そう、足! お前が掴んでたのは足だったのっ!! あの森からずうぅっっっとお前は俺の足を引っ張って引き摺ってたのおおお! 見てみろこの頭を! 黄金の金糸のような髪と名高かったのにっ」
 木の葉や泥に塗れた汚い髪は、泥で白かったり茶色かったりしているけど、本当の色は金みたいだ。落ち着いた色合いはアルフレッドみたいに長い間旅をしているような者ではない、太陽の光で焼かれていない証拠だ。
 地面にへたり込んでいる男は薄汚れているけれど、素直に美丈夫だと思った。整った顔立ち、均整のとれた体躯、砂埃を払った顎には髭があるけども、それに男くさいむさ苦しさを感じることはない。
「それは悪かったね。でも無事で良かったよ」
 あんなにたくさんの敵に丸腰で襲われていて、掠り傷やたんこぶはあっても、酷い外傷がないことは奇跡だ。
「いやだからこの傷全部お前が引き摺ってくれたおかげで出来たんだからねっ!? 森にいたときはお兄さん無傷だったのよ?」
「運が良かったんだね! 俺が通り掛かって」
「誰かああああ! 通訳連れて来て……!」
 おいおいと泣き伏せた男の足から指を離す。浮いていた下半身が落下したはずみで男が呻いたような気もしたけど、構っているゆとりはない。
 逆の手に握ったままだった銃の弾倉を開けば、弾薬は半分になっている。減った分をすぐに補充すると、懐へしまった。
(無駄遣いはできないけど、あんな変な動物がいるんじゃ出し惜しみもできないな)
 なるべく戦闘を回避していくしかないか。
 アルフレッドは溜め息を吐くと、いつの間にか顔を上げて愛銃をしげしげと見つめている男に話しかけた。
「ところで、あんなところで何してたんだい。いやそれよりも、あの狼みたいなのがエステニア大陸の獣?」
 アルフレッドの一連の動作を興味深そうに覗いていた男は、ハトが豆鉄砲を食らったような顔をした。
 こいつはそんな当たり前のことも知らないのか。バカなんじゃないかということを真剣に考えている表情だ。
「俺は隣国からここに来たばっかりなんだ。エステニアの土を踏んだのは正真正銘、初めてさ。生まれ故郷でもアフロカ大陸でも、あんな生き物なんて見たことがないよ」
 ムッとしながら口にした言葉に、男はようやく自分が不躾な反応をしていることに思い至ったらしい。
「ああ、悪い悪い。一応とはいえ、命の恩人にする態度じゃなかった。礼も言ってなかったしな」
 服に付いた埃を叩き落とし、男は美しい身のこなしでようやく立ち上がった。アルフレッドよりも低い目線に気付くとムッと眉をよせたが、すぐにそれは笑顔にかき消えて見えなくなる。
「助かったよ旅の人。あのままだと面倒なことになっていたからな」
 さらりと目に掛かる前髪をかき上げて、男は歌うように言葉を続けた。
「俺の名はフランシス・ボヌフォワ。フランシス様って呼んでくれ」
「そうか。頭がかわいそうな人だったんだな……町に着いたら一緒に病院に行こう」
「ちょ、ちょっとふざけただけだからそんな真面目に哀れむような目で見るのは止めてっ」
 再び目に涙を浮かべた男、フランシスがわあわあと枝垂れかかって来たので、その顔を手で押し退ける。グギッと首のあたりから音が聞こえたけど、たぶん空耳だろう。
「えーっと、フランシス? って言ったっけ。なんであんな森にいたのかは知らないけど、君もミネアの町に向かってる?」
 首を押さえながら「ぐおおお」と呻いていたフランシスはアルフレッドの言葉になんとか頷いている。
「そ、そうです……ちょっと隣町から近道しようとしまして……魔物に襲われていました」
「魔物? あれが?」
 獣の黒い影のような姿。自然界を躍動する動物たちとは違う、乾いた皮を何層も重ねたような無機質な感触がした。地上で太陽の恩恵を受け生きているものとは、在り方がまったく異なるような違和感。
「そう、あれが魔物だ。その様子だと、まだエステニア大陸以外に魔物たちは渡っていないんだな」
 首をゴキゴキさせながら復活したフランシスは意外だと訝しげな声を上げた。
「……たぶん、嵐の結界のせいじゃないかな」
 海を渡るために魔物たちはまず、空を飛べないくてはいけない。だが例え飛べたとしても、あの嵐の中を突っ切るのは人間と存在を異にする魔物たちでも、容易ではないはずだ。
「結界?」
 首をかしげるフランシスは、パラパラと落ちて来る砂に顔を顰めながら垂れ落ちる前髪をかき上げた。
「知らないの? 外からの貿易船が絶えたのは恐ろしい嵐が毎回船を襲って、来られなくなってしまったからさ。こっちからの船もてっきり、嵐のせいで難破するから渡航を止めたと思ってたんだけど」
「…………俺はしばらく内陸にいたんでな。船の渡航が絶えているなんて知らなかったよ。どうりで物資の不足が目立って来てるわけだ。ただでさえ大陸内でも町同士の行き来が難しくなっているっていうのになあ」
 フランシスは憂鬱そうに溜め息を吐くと、なにもかも諦めたように笑った。
「まあ、なにが起こったって、ここにいるしかないんだけどね。やんなきゃいけないこともあるし」
 気分を入れ替えるようにフランシスは明るく言うと、貴婦人をワルツに誘うかのように優雅に歩き出した。後ろを振り向こうともしない。ついて行く義理はないのだが、アルフレッドはうっかりつられてその背中を追いかけた。
「君も冒険者なのかい?」
 ステップを踏むような、とまで言うと大げさだけど、彼は上品な身のこなしであぜ道をどんどん先へ進んでいく。どんな儀式かと思ったが、この鼻につく気障ったらしさはどうやら生来のもののようで、意識して醸し出しているわけじゃなさそうだ。
「冒険者なんて野蛮な名称で呼ばないで欲しいね。俺は大陸に住むたくさんの女性たちを慰める、愛の狩人なの。各地でまばゆく輝く俺の宝石たちを愛する行為を冒険だなんて、そんな下品な言葉で表現されたくないね」
 前言撤回。この自意識過剰さは自覚しながら敢えて行なっているようだ。
「そういうお前こそ、冒険者みたいだね。変な武器まで持っちゃって」
 ちらりと目線だけ振り返って来た彼が、アルフレッドの胸元――銃をしまっているところ――を一瞥する。顔はすぐに前に戻ってしまったけれど、アフロカ大陸で手に入れたこの武器はエステニアでは一般的じゃないみたいで、興味を誘ったようだ。
「お前じゃないよ。俺にはアルフレッド・F・ジョーンズっていう、立派な名前があるんだからね」
「そりゃ失礼。フレディ坊や」
 鈍い鈍いといろんな人間から言われ続けてきたアルフレッドだが、この伊達男が鼻持ちならない奴だってことはそんな彼でも分かった。
「アルだよっ! まあ君にはぜひともアルフレッドでお願いしたいけどね!」
 こんないけ好かない奴に愛称で呼ばれるなど、真っ平ごめんだ。
 しかし怒りに任せて彼を追い越したアルフレッドのあとを「エステニア大陸初心者に道案内してやるよ」と、フランシスが今度は追随してくる。
 道案内も何も行こうと思っているミネアの町は分かりやすく大きな城壁が見えているので、そこを目指して進んで行けばいいだけだ。
 単に一人になって、また魔物に襲われそうになっても大丈夫なように付いて来ているとしか思えず、振り切ろうと足を速めても、ちっとも堪えた様子はなかった。
「君、戦闘はよわっちいけど体力はあるんだね……」
「よ、弱いわけじゃないってっ! さっきのはね、ちょーっと油断しただけなんだっ。不意をつかれて背中から襲われちゃったの!」
 そんな言い訳はどうでもいい。だが、彼はスライドの大きい早歩きにも遅れずに付いて来て、息が上がったアルフレッドに比べてもまだまだ余裕があるようだった。
(本当に忌々しいな……)
 まるでお前なんてまだまだ、人間としても冒険者としても青二才だと暗に言われているようだった。
 しかしそれも町に着くまでの我慢だ。到着したら目的はそれぞれ違うだろうし、別れることになるだろう。そう言い聞かせて、不本意な同行者を引き離すことを諦める。
「そうそう、子供は大人の意見に従うもんよー」
「失礼だな! 俺はもう十九だよ。長い間一人でずっと旅をしてきたんだ」
 確かにフランシスよりは若いかもしれないが、もう充分に独り立ちをしている自負がある。そうでなければ危険だと言われている大陸をのこのこ一人で訪れたりはしない。
「ふうん。帰る家があるんじゃないの?」
 ギクリとして体がぎこちなく揺れた。けれど、フランシスは変わらずアルフレッドの前を歩いていたので、気が付かずに続けてくる。
「故郷で待っている恋人とかさ。安息の地があるから若いうちは結構無謀も出来たりするんだよね。若さって良いねぇ」
 恋人。
 口の中だけで呟いて、アルフレッドは久しく見ていない初恋の育て親の顔を思い出そうとした。彼は恋人じゃないけど、アルフレッドの帰りを待っていた人であることに変わりはない。
 そう、恋。彼は口うるさくて、怒りっぽくて、ネガティブで。喧嘩すると仲直りが大変で、でも仲直りの印のハグは、成長したアルフレッドが彼の体を思いっきり抱き締められる、唯一の機会だった。
 そこまで考えて、ブンブンと頭を振って思考を散らす。結局育て親の顔はしっかりと像を結べず、思い出せたのは彼の首筋から香るバラの匂いだけ。
 小さな庭で世話をしていたあの大輪のバラの鮮やかな赤は、とても印象に残っているのに、何度も繰り返し見たはずの彼の表情は薄らぼんやりとしていて、しっかりと思い出せなかった。
 いや、鼻の形や頬の白さ、眉毛の太いところもちゃんと覚えてはいる。けれどそれがどんなふうにつり上がり怒りの表情を作っていたか、頬を淡く染めて微笑んでくれていたのかを、久しく会っていないアルフレッドはおぼろげにしか描けなかった。
「えっ、なになに? 急に静かになってさ。もしかしてホントにいるの? 待たせてる恋人」
「……下世話だよ君。なんで親しくない人にそんなことまで教えなきゃいけないんだい」
 ガツガツと力を込め、踵を打ち鳴らしながら歩くアルフレッドを、新しいおもちゃを手に入れた子供のようにフランシスはワクワクと見守る。
「恋の話は社交界だってベッドの中だって、旅の途中でだって聞きたい話題じゃんー。気にならない?」
「ちっとも!」
 なんでこんなうるさい男を助けてしまったのか。脱出は手伝ってもさっさとそこで別れてしまえばよかったと、アルフレッドはミネアの城壁に辿り着くまでに十四回は考える羽目になった。










  04.ドリア炭鉱

 ドリアは昔、炭鉱で栄えた村だった。近くにある洞窟からは炭や銅が採掘され、それを輸出して村は発展した。しかし炭や銅は掘り尽くされ、村は衰退の一途を辿った。それから村人たちは日々の糧を畑で収穫し、家畜を育てる細々とした生活を続けていたのだが。
 数年前、ドリア炭坑から新たな鉱物が発見されたのだ。大きな地震で洞窟内に出来た新たな地割れの隙間から出てきたそれは、銀であった。
 ドリアの村は再興するかに思われた。大量に発掘された銀は次々と流通に乗り、その富は村を潤すはずだったのだ。
 魔物たちに村や炭鉱が襲われ始めるまでは。
「お前が来る少し前までは村への襲撃も酷いものだったからな。炭鉱もおそらく荒らされているだろう」
 魔物たちの襲撃を防ぎながらの採掘は難航を極め、ドリアの村の人々は炭鉱へ行くのを諦める他なかった。もちろん諦め切れない人々もいたが、ルートヴィッヒを始めとしたドリアの村の人々は、魔物の進攻が収まることを願いながら村の防衛に専念しているのが現状である。
 ルートヴィッヒは炭鉱でつるはしを奮う男たちが集う村の中でも、なかなか腕の立つ若者だ。毎日とはいかないが、定期的に炭坑の様子を見に行っては状態を調べていた。
 フェリシアーノを引き取ってからは村の外へ行くことが叶わず、随分放置していた。だが、彼も元気になったことだし、様子を見に行こうとしたとき、フェリシアーノが「俺も行く!」と言い出したのだ。
「炭坑の内部にはさすがに入れんだろう。入口付近を確認して……見えてきたな」
 ルートヴィッヒが目線を隠すように生い茂っていた枝を払ったとき、木と木の隙間から土砂と岩肌が見えた。
「お前はあのあたりに倒れていた」
 そうしてフェリシアーノが指を刺された先に目を凝らしたとき、黒い影が目に入った。
「な……っ!」
 ルートヴィッヒが体を硬直させたのが分かる。真っ黒い影は炭鉱の入り口の前で蹲り蠢いている。
(まさか、魔物!?)
 ひやりと背中一面に冷たい緊張が這っていく。ひくりと震えたフェリシアーノの肩をルートヴィッヒが後ろへと押し退けて、背負っていた愛用の斧を構えた。
「ここにいろ」
 ぼそりと呟いて、ルートヴィッヒは気配を殺し炭鉱へと向かっていく。一人で行く気なのだ。フェリシアーノは体を震わせながら、怖気づく両足を叱咤した。
(俺だって行かなきゃ! ルートの役に立つんだ!!)
 武器は何も持っていないけれど、敵の撹乱くらいなら出来るはずだ。逃げ足だけには自信がある。
 そう思って踏み出した一歩は、枯れ枝を踏み締めて驚くほどの大きな音を森中に響かせた。気配を殺しながら忍び寄っていたルートヴィッヒにも、蹲っている黒い塊にも、その音はしっかりと聞こえた。
 影はむくりとその体を起こし、ゆっくりとこちらを振り返る。鬼のように恐ろしい形相なのではないか、想像に恐ろしくなったフェリシアーノは気配も音も気にしている余裕もなくルートヴィッヒに飛び付き、その背中に隠れた。
「ど、ど、ど、どうしようルート! 怖いよぉぉぉ、あいつ絶対俺たちを食べちゃうよぉぉぉ!」
 フェリシアーノが泣きながらるルートヴィッヒの背中を揺さぶると、彼は筋肉で覆われた上体をぐらぐら、時計の振り子のように左右に振られながらも彼を怒鳴りつけた。
「いいから落ち着け! よく見ろ、お前にはあれが俺たちを頭から食うように見えるのか」
 ぐわしと頭を片手で握られ無理やり前へと押し出される。半ベソをかきつつもなんとか開いた瞳は、フェリシアーノたちを呆然と見詰める若者がいた。
「……あれ? 人間だ」
「そうだ、人間だ」
 しっかりと頷かれ、フェリシアーノはようやく頬から涙を擦りとる。鼻水まで出てしまっていたが、それは先程涎を拭いたタオルを渡されて思いっきりかむことができた。
「なーんだ。おんなじ人間ならちっとも怖くないねえ。ルートがあんまり緊張してるもんだから、俺てっきり魔物なんだと思ってたよー」
 一気に重圧から解放され気の抜けた声を出すフェリシアーノに、ルートヴィッヒはいまだに片手で頭を掴んだまま固い声を絞り出す。
「いや、油断はできん。あいつが盗賊でないという保証がないからな」
「………………」
 ぴたりと動きを止めたフェリシアーノは、一呼吸置くと再び泣き喚き始めた。
「うわぁぁぁっ! やっぱり逃げようよぉぉぉ俺の頭からいい加減手ぇ離してぇぇぇ!」
「だから泣くな! お前には根性というものがないのかっ」
 ジタバタと暴れていると、ルートヴィッヒとの会話を聞いていたのだろう、盗賊――かもしれない――彼が呆れ果てた様子で溜め息を吐いていた。
「あー……とりあえず、盗賊じゃないから安心しろ……」
 黒い影になって見えていたのは、しゃがんでいた彼が羽織っている真っ黒なローブが、すっぽりとその体を覆い尽くしていたせいだった。
 よくよく見てみると彼は普通の若者で――吃驚するくらい眉毛は太かったけど――身長もルートヴィッヒより低く、体格もフェリシアーノとさほど違いはないようだった。
 さらりと揺れた金の髪と、遠目からでも分かる印象的な緑色の瞳。フェリシアーノはその色に懐かしさすら覚えた。
(お日さまを透かした葉っぱの色だぁ)
「ルート、あの人盗賊じゃないんだって。良かったぁ、もう安心だね!」
 頭から手を離したルートヴィッヒは、がくりと大木に凭れ額を抱えている。頭痛でもしているのだろうか、首を傾げているとローブ姿の彼が気の毒そうにルートヴィッヒを見つめていた。
「お前らが何の目的でここにいるかは知らないが、ここらへんはあんまりうろつかない方がいいと思うぜ。じゃあな」
 裾を翻しながら去ろうとする彼の行く手を阻んだのは、意気消沈から立ち直ったルートヴィッヒだ。構えた斧の刃は彼に向いていて、木の葉の隙間から零れる陽光を弾いてキラリと輝く。とても、物騒な光だ。
「目的が分からないのは貴様も同じこと。ここで何をしていた」
 顰め面が常態であるルートヴィッヒの顔が、フェリシアーノも見たことがないくらい怖い表情を浮かべている。急展開についていけなかったフェリシアーノはルートヴィッヒの肩を掴んで引き止めようとした。
「る、ルート……まずは話し合おうよ。俺たちと同じで、様子を見に来ただけかもしれないじゃないか」
 相手は完全な丸腰で、しかも一人である。それでも平然とルートヴィッヒの険しい眼差しを受け止めている姿はふてぶてしく、厚顔にさえ見えた。
「へえ。理由によっちゃ、その斧で俺の頭と胴体を切り離すって言いたいのか?」
 「面白い」と嘲る彼はローブの裾を払い、腰から鞘を覗かせた。
「ええ! そんなこと思ってないよ? そうだよねルート?」
 必死に二人の間の険悪な空気を払拭しようと、フェリシアーノがルートヴィッヒの顔を覗きこむと、彼はむむうと眉間の皺を増やす。相手が敵なのか味方なのか思い悩んでいるようだ。
「君の名前は? 俺はフェリシアーノって言うんだ。彼はルート。近くの村に住んでいるんだけど、このあたりは物騒だから定期的に見周りに来ているんだ。そうだったよね、ルート?」
「あ、ああ……あと俺はルートじゃない。ルートヴィッヒだ」
 必死に場を繋ごうと言葉を尽くすフェリシアーノに、構えはさすがに解くことはなかったが、ルートヴィッヒの毒毛は抜かれた。相対していた彼もひとつ舌打ちをすると、不貞腐れた態度を隠そうともせず腕を組む。
「お前らの名前なんてどうでもいいし、俺は名乗るつもりもない。ただ、この近辺が危険だってことは賛成だな。特に炭坑には絶対に入るな。近くの村ということはドリアの村の者だろう。村中の人間に伝えておけ」
 言いたいことはそれだけだと、やはり彼は踵を返そうとする。
「わぁぁ! だから待ってってば!」
 ひらりと揺れたローブを捕まえようとフェリシアーノは走り出す。木の葉や石、枯れ木で足場の悪いあぜ道は焦るフェリシアーノの足を簡単にすくって、ぐらりと体勢を崩した。
「えっ!?」
「フェリシアーノ!」
「…………っ」
 フェリシアーノは支えようと伸ばされた若者の腕も間に合わず、ちょうど炭坑の入り口近辺、先程まで彼が蹲っていた場所に派手にすっ転んだ。それと同時に地面へついたフェリシアーノの右手に突然痺れるような痛みが広がる。
「うわぁっ!」
 ビリビリと容赦のない痛み。雷が右手に落ちたとしら、こんな痺れが襲うのではないだろうか。転んだ衝撃と痛みにひっくり返りながら、フェリシアーノは悲鳴を上げた。
「き、貴様! フェリシアーノに何をした!!」
「何もしてねぇよっ! こいつが勝手に炭坑に突っ込もうとするから……っ」
 ローブを纏う彼の胸倉を掴み上げ、今にも殴りかかりそうな勢いのルートヴィッヒに、彼も喧嘩腰に怒鳴り返す。
「な、なんだったのさっきの? すっごいビリビリしたよー」
「大丈夫か?」
 ルートヴィッヒは放り投げるように若者から手を離ししゃがむと、へたり込んだフェリシアーノの腕を掴み、上体を支える。
「うん。まだちょっと痺れてて痛いけど、別に怪我とかはないみたい」
「そうか……」
 ほっとしたように言葉を落とすルートヴィッヒに助けられながらゆっくりと立ち上がると、ローブの彼はバツが悪そうに口をひん曲げていた。
「お前、炭坑の入り口になにをしたのだ」
 厳しく詰問するルートヴィッヒの手のひらを落ち着いてくれと撫でて、フェリシアーノはローブの裾を握りしめている彼に笑いかける。
「この炭坑が危険だから、人が間違って入らないように仕掛けを?」
「………………そうだ」
 やがて諦めたのか、幾ばくかの沈黙のあと彼は渋々と口を開く。
「ちょっと簡単な呪いを施しただけだ。人間には命に関わるようなことはない」
「呪い? ……貴様、何を」
 聞いたことのない言葉に、からかうなと声を荒げたルートヴィッヒを、彼は「からかってなどいない」と真顔で返す。
「お前たちが知らないだけで、世界の理には想像を絶する力が存在している。まあ、無理に信じろとは言わないが」
 想像を絶する力。それがあの雷みたいなものだったのか。フェリシアーノが炭坑の入り口に目を凝らすと、確かにベールのようなものが幾重にも折り重なり、周辺を覆っている。
「まじないって、レース布みたいにふわふわしているんだねー」
 霧とも違うふんわりとしたモヤは空気の流れに動くこともなく、薄い雲のように浮いている。食べたら美味しそうだと付け加えたフェリシアーノを、ギョッとした彼は食い入るように見つめた。
「見えんのか!?」
「うん。あれ? みんな見えてるんじゃないの?」
 あっさりと返事をしたフェリシアーノに、ルートヴィッヒは目を見開き唖然としている。
「俺には何も見えんぞ」
「そうなんだ? あんなにしっかり見えてるんだけどなぁ」
 彼はぎゅっと眉を寄せると、ルートヴィッヒよりもフェリシアーノを警戒し距離を取った。威嚇をしている猫のように全身を使って張り詰める様は、さっきまでの小馬鹿にしていた態度と雲泥の差だ。
「何者だ、お前」
 柄を握った彼に、ルートヴィッヒも何度目か分からない、緊迫した空気を漂わせる。
(また喧嘩腰だよ……みんな仲良くしたらいいのに)
 痺れのとれた右手を、フェリシアーノは苦笑を浮かべながら彼へと伸ばす。友好の証である、握手の形で。
「うーん。俺のことを説明するのは、ちょっと大変なんだ。でも隠すつもりはないよ。だから」
 「俺たちと一緒に村まで来ない?」というフェリシアーノの提案に、彼だけでなくルートヴィッヒまでが驚愕していた。





・ルトフェリも大好きなんです……