学ヘタパラレル

01. 花は根に1
02. 花は根に2
03. 花は根に3
04. 花は根に4


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  01.花は根に1

 キラキラと踊る光が、瞼の向こうに感じられる。この感触はよく知っていた。あの人を待っている最中、大木の下に寝そべってうとうととしているときに感じたあれと一緒だった。葉と葉の隙間から零れる陽光が自分の瞼の上で踊り、この柔らかい光はいつも教えてくれた。
 もうすぐ彼がうたた寝している自分を覗き込んで、愛しいとしか感じていない声で呼びかけてくれるよ、と。ほら、足音が聞こえてきた。アルフレッド、アル。マイラブ、そんなに寝ていたら、瞼と瞼がバターみたいに溶けてくっ付いてしまうぞ。笑いながら髪の毛を梳いてもらうその手が、大好きだった。
 ふっと日差しが陰り、手が伸ばされてくる気配がする。けれども砂糖のように甘い声は降って来なくて、おかしいと違和感の中、閉じていた瞼を少しだけ開いた。
「――っ!」
「ぶぉっ!!」
 そこにあったのは見慣れた金糸の色ではなくて、鬱陶しいほど伸びている劣化した絹のようなものだった。いやこの人の髪も金に近いのは認めるけど――先入観というもので彩られている自分は不快感を覚えても、彼の本性を知らないものならば、美しいと感じるかもしれない――アーサーのはもっと深い色合いで、太陽の下だとそれは本当に美しいのだ。間違っても緞帳のように長ったらしいこれではない。
 あんまりに顔と顔が接近していたので、つい拳で鼻っ柱を殴りつけてしまった。鈍い音がしていたがこれくらいならばそれほどのダメージにならないと、経験上よく知っている。打たれ強くなければあの人の隣国などやっていられなかったと、本人が認めているくらいだ。
 おかげで悲鳴よりもなによりも早く出てしまった手を、後ろめたく思わずとも良いのはいいことかもしれない。いやいや、殴られて当然だろう。目を開けたら変態の尖った唇が間近にあるなんて、最低な目覚めだ。
「……なんの冗談だい。フランシス」
 横たわっていた上体を起こし、痛みに悶絶しているフランシスを睨みつけると、鼻を押さえている両手の隙間から、怪訝そうな眼差しでこちらを見つめて来た。普段取り澄ましている顔が涙目で、情けなさの極致だ。
 変態の顔などいつまでも見ている価値はない。すぐに視線を逸らして周りを見回すと、そこは気絶する前に穴らしきものに落ちた場所と寸分違わない、中庭の森の中だ。先ほどの浮遊感は一体なんだったんだろう。探しても落とし穴はどこにも見当たらなかった。どうして自分は気を失ったんだ。
「おーい」
「うるさいな。なんだい?」
 こっちの興味を引き寄せようと、わざとらしくフランシスの手が目の前で振られたので、鬱陶しくそれを払い落した。別段いつもの態度と変わっているものはない。どんなに邪険に扱っても、この変態は懲りずに接触を止めようとしないのだから。
「うるさいって、生意気な奴だな。お前、制服着てるってことはこの学校の生徒なんだよなぁ。新入生か? 登校してくるには時期間違ってるだろ。どこの田舎ものだよ」
 赤くなった鼻をグスグスさせながらおかしなことを言うので、仕方なくまた視線を戻した。へらへらした笑顔はなりをひそめ、真面目くさった表情でこちらを観察してくるような目をフランシスから向けられるのは、久方ぶりのことだった。
 戦時中は、お互いの腹を探り合うのが常だったから、同じ陣営に属していても良くこんな目で笑い合っていたものだけれど、なんだかんだ言って自分もフランシスも、平和慣れしてしまっているのだろう。
「きみの脳内はいつでもお花が咲いていることは知っているけど、そのジョークはちっとも面白くないぞ」
「おま……っ、本当にどこの国だよ。このフランシス様に向かってそんな口を叩こうとは。植民地だとしてもどんな礼儀知らずに教育されてんだか……言葉も聞きずれぇし。ブロークンにしてもひでぇ。聞き取れるなら仏語も話せるだろ。仏語を使え仏語を」
「……なに、言ってるんだい」
 よくよく顔を見てみると、あのむさ苦しい髭がフランシスの顔にはなかった。日頃むしってやる、無くなってしまえと念じていたのが通じたのかと思ったが、それにしたって彼の反応はおかしい。
「俺だよ。アルフレッドだ。さっきまで一緒に生徒会室にいたじゃないか。あれかな、髭と一緒に少ない脳味噌の一部もどこかに削げ落としてきたのかい」
 まるで自分のことを知らない、会ったことのないもののような反応をする。
「アルフレッド……つうか生徒会ってなんだ。この学校にそんなものねぇよ」
 そこでようやく自分は思い当たった。これは夢か。忌々しいと思っていたものがこうも都合よくなくなるなんて、それ以外に考えられない。落とし穴が見当たらないのも、納得がいく。
 自覚のある夢なんて滅多に見るものじゃないけれど――おまけにこんなにリアルだ――そう思うとすべてが解決する。だとすると、自分の夢なのだから存分に楽しまなければ損だ。急に黙りこくった俺のことを気味悪そうな目で見ているフランシスに、気持ちを切り替え意識して友好的な笑みを浮かべた。
「いやぁ、ごめん。どうやら寝惚けていたみたいだ! 目が覚めた途端気持ち悪いものを見ちゃったせいもあるけどね。俺はアルフレッド。今度転校してくるんだ。早めに学校を下見してみようと思って、うろついていたんだよ」
 なよなよしている態度と裏腹に老獪な一面も持ち合わせているフランシスを、完全に騙せるとは思っていなかったけど――欧州のこの面倒くさい仮面の一部には、ほとほと嫌になる――どうせ自分の夢なのだ。目が覚めれば終わる。
「……ふーん。まぁ、どうでもいいけど。まだ学校も始まってないしな。転校してくるってことはどこのクラスだ。俺の植民地にしてやるよ」
 光栄だろう? そう言ってまた手を伸ばして来ようとしたので、手のひらを取ってやった。によによとした悪党の笑みが深まり、こちらも相手に合わせてにっこりと頬を持ち上げる。
「お断りだよ」
「いだだだだだだー!」
 握った指の骨を砕くつもりで力を込めると、フランシスはまた体を捩って痛みを堪えている。その間抜けな姿をじっくりと堪能してからぽいっと打ち捨ててやった。誰が植民地になどなってやるか。
「し、信じられねぇ……どれだけお前、でかいんだよ。爺ちゃんほどとは言わねぇけど」
 赤くなった指を、口を尖らせて息を吹きかけつつ、フランシスは拗ねたような目でこちらを睨んだ。そんな態度を取られたことはなくて、ガキくさい反応をする彼に俺は湧き上がってくる優越感を堪え切れなくなる。
 自分の夢とはいえ素晴らし過ぎる。大人の余裕などと嘯いて、手のひらの上で玩ぶようなフランシスの見栄にはうんざりしていたのだ。植民地が田舎ものがと言いながら、現状では彼だって充分幼稚くさい。まるで同等になったような気がして、これで機嫌が良くならないはずがなかった。
「俺は君たちとは比べ物にならないくらい大きいよ。ひしめき合っている欧州なんて太刀打ちできないくらいにね」
 なんと言っても、俺はヒーローなのだから。どんなに悪い奴が徒党を組んだって負けないし、むしろ必死に同盟を組み合っている欧州だって、まとめて守ってあげようかと笑ってやると、フランシスは彼らしくない粗暴さで舌打ちをした。
「……その尊大な態度、いますぐ俺が叩き直してやろうか」
「できるものなら」
 言わせておけばと立ち上がったフランシスの眼光は、口調の軽さで誤魔化せないほど物騒で、一気に楽しくなる。彼と真剣に立ち会ったのはいつだったか、その時自分はまだまだ幼くて、あの人の庇護なくしては勝てなかっただろうけれど。
 いまは、一人でも簡単に捻り潰せる。
 ゆるりと立って、拳を握り締めた。いつでも駆け出せるように身構えると、フランシスが少し蹴落とされたように後ずさる。一瞬の沈黙、どこから来るかと互いの気配を読む時間。長閑な鳥の鳴き声だけが、場に不釣り合いに響き渡っている静寂。
 地面には平和的に葉が揺れる像がひっきりなしに踊っている。その影を踏みつけ、踏み込みのための酸素を思い切り吸う。吐き出すと同時、一撃目を仕掛けるつもりだった。
 突然、フランシスが目の前から姿を消すまでは。消す、という表現は正しくはなかった。けれども、自分の目にはまるで煙が霧散するかのように、フランシスがいなくなったように見えた。
「――――っ」
 ぐふっ、と呻き声が地面から聞こえたけれど、自分には気にしている余裕はなかった。弾丸のようなスピードで現れ、フランシスをハイキックで地面に沈めた彼は、その背中に片足を置いて着地し、呼吸を整えている。その苛烈なほどの、みどり。
「俺とのガチンコを差し置いてよそと戦うとは、余裕じゃねぇか」






  02.花は根に2

 髪を乱したままだったけど、彼の金糸は短かったから、多少の跳ね返りは気にしていないようだった。きらきらした光を受けるたびに跳ね返している。太陽の下にいると金ではなくて白に近くなるフランシスのものとは、やっぱり全然違った。
 制服も生徒会室にいるときとは打って変わって着崩している。ブレザーの前ボタンを外し、タイを少し緩めている姿など、着替えているとき以外に見たことはなかった。それがすごく様になっていた。
「このまま、背骨折ってやろうか。そうすりゃ俺んちに有利になるな」
 悪役よろしく、隙を見せたお前が悪いとせせら笑って、本格的に力を入れるその足をぼんやりと見つめる。こちらの視線を感じたのか、冷酷な瞳はふっと俺を見咎めて、胡散臭そうなものになった。
「……お前、なんだ? 見たことない顔だな。こいつの植民地か」
 それならば容赦はしないと、冷たい眼差しが貫いてくる。外敵に対して、未知のものに対して興味の薄いエメラルド。初めの出会いからずっと――あの雨の中でさえ――こんな目で見られたことはなく、自分を知らないアーサーなど存在したことはなかった。ああやはり都合のいい夢なんだなと確信を深める。喧嘩っ早いのは、どうやら自分の中で切り離せない彼の一部分に換算されているようで、変わっていないようだけれど。
「ちが……」
 否定の言葉を舌に乗せながら、あっと思ったときには、アーサーはすでに転んだあとだった。背中に乗られた姿勢のまま、後ろ手でアーサーの足を掴んだフランシスが地面へ引き倒し、彼のバランスを崩した。形勢逆転だと、彼の腹に馬乗りになったフランシスは鼻で笑う。
「油断してんのはどっちだよ」
 片手で簡単に両手の抵抗を封じ、自由なフランシスの手が、彼のシャツの中に突っ込まれたのが見えた。まったく、これは俺の夢だと言うのに、どこに登場しても変態なんだな。
「――っ! な、どこ触ってっ」
「どこって、まずロンドンあた」
 ごぎゃという音がしたのは気のせいではないだろうが、これくらいなら気を失う程度だ。ゴキブリばりに生命力に満ち溢れているのだし。所詮夢だし。アーサーにばかり気を取られてこちらの動向を忘れ去っていた間抜けの首をおかしな方向へ曲げると、そのまま彼の体の上から払い落す。
「あ……」
 落ち葉を巻き上げて捨てられたフランシス、そして俺の顔を交互に見たアーサーは、ぽかんと口を開けた。乱された服はそのまま、ほんとう、間抜けな顔。
「はじめましてアーサー。今度学校に転校してくる、アルフレッドだよ。アルフレッド・F・ジョーンズ」
 俺のことを知らないまっさらの君なんて、最高だ。座り込んでいるその手を握り、俺は痩身を引き起こした。臍まで捲くれていたシャツを整えてやると、アーサーはバツが悪そうに視線をあっちこっちにさ迷わせている。
「助けてもらったことには礼を言う……。だけど調子に乗るなよ! あんな奴、俺一人でも簡単に捻り倒せたんだからな」
 それはそうだろう。これは自分の夢なのだから己に都合が良くなければ困るし、なんと言っても現実でも、彼がフランシスに犯されたなど聞いたこともない。国土は何度か侵略されたようだけど。
「君が強いって、良く分かってるよ」
 本心を隠さず言うと、アーサーは照れて頬も耳朶を真っ赤にした。可愛いな。
「お前……えっと、ジョーンズだったか。なんでこんな時期に学校に来たんだ? 夏季休暇中で先生だっていないぞ。強いて言えば寮監と俺とこの変態くらいだ。変態の植民地じゃないって言うし」
 夢の中の学校は現実のものよりも校舎が少なかった。中庭の向こうには建物がなく、寮も外観を見ただけでひと棟分小さいと分かる。増築前の学園みたいだなと思ったけど、必要のない部分は見ないようにしているのかと納得した。
「学校の下見さ。君たちこそ、なんで残ったの?」
「……俺とあいつの本土はいま戦争中だ。俺は帰って来るなって、上司から言われてる。危ないからって。それを知ったせいなのかは分からんが、あいつも残った。それだけだ」
 それで校内で見かけるたびにサバイバルしているわけか。安全のためにと思っての行動がそんな結果になるだなんて、上司も想像していなかっただろう。しかし夢だというのに、しっかりとした背景作りに自ら感心してしまう。
 アーサーはフランシスを一瞥してぴくりとも動かないのを確認すると、ひとつ舌打ちをして歩き出す。森を抜けて廊下に出ると、彼はまっすぐ寮に向かうようだった。無言の背について行くと、渡り廊下から校舎に入るか入らないかのところで、気まずそうにこちらを振り向いてくる。
「おい、付いてくるなよ。学校の下見なら勝手にすればいいだろ」
 用が終わったのなら、国に帰れ。素っ気なく言って、アーサーは言うべきことは言ったとまた背を向けた。
 彼の背中を見送るたび、腹の奥がじんわりと熱を持つ。焦燥感や寂寥感とも言えるそれが容赦なく臓腑を焼いて、どんなに体が成長し、互いの立場が変わろうとなくなることはなかった。酷い台詞を吐いてしまって、泣きそうな背中を見たときには、特に。
 これは現実じゃない。アーサーに優しい言葉をかけたって無駄だと分かっている。ただの自己満足なんていらないと、アーサーに向かって言い放ったのは俺自信だ。
 でも、現実じゃないのだから、せめて夢くらいなら。優しくしたい。
 ここで終わらせてなるものか、現実では絶対出来ないことをしてやろうと決めた俺は、ゆらりと揺らめいている、ほっそりとした腕を捕まえる。
「学校に来た本当の理由は下見じゃないんだ」
 捕まれた腕を忌々しそうに睨んで、アーサーは胡乱そうな表情で俺を見上げた。ちょっとしかない身長差だったけど、この距離が大好きだった。彼の背を追い越したときは、嬉しくてたまらなかった。
「君に会いに来たんだ」
 現実では俺も素直になるなんて無理だから。夢の中だけでも、君をめいっぱい、愛したいんだ。






  03.花は根に3

 図書室に行くと当然扉は鍵が掛かっていた。どうするのかと思っていたら、懐から取り出されたピンでアーサーが容易に開けてしまう。絶句した俺に、彼は猿かと言いたくなるくらい顔を赤くして、乱暴な仕草で扉を開けた。
「いつもはちゃんと、鍵を借りて来てる!」
「そう……」
 絶対常習犯だと確信していたが、言及はしなかった。思い返すと、いろいろ前科がある人だった。夢でも影響を受けていてもおかしくはない。
 図書室は空気の換気が足りないせいで、古い紙の匂いが室内中を覆っている。しかも蒸し暑い。この饐えたインクの匂いを嗅ぐと頭が痛くなってくるが、アーサーは違うようだった。俺が我慢しきれず窓を開けている横で、熱心に本棚を見上げている。
 並んでいる窓の三つあるうち、ひとつの建てつけが悪くなっていて、なかなか空かない。やっとこさ開き切ったときには、アーサーは本を選び終わって椅子に腰かけていた。俺が席をひとつ空けて隣に座ると、ちらりとこちらを窺ってきた。
「本、取らないのか?」
「君と一緒に読むんだよ。だからちょっとこっちに寄せておいてくれ」
 哲学書や歴史書だったら読書に集中するアーサーの観察に徹しよう。そう思って本のタイトルを確認してみた。……なんというか、彼らしいと表現して良いのか悪いのか、判断に迷う選出だった。
「どれだけ自分大好きなんだい……」
「なっ、気に入らないなら好きな本持ってくればいいだろう!」
「気に入らないとは言ってないよ。ちょっと呆れたけどね」
 重厚な本の表紙。厚いそれを捲ると現れるのは古臭い表現の羅列だ。そして彼の名の元になったかもしれない、王様の物語が始まる。
 物語としてドラマティックに演出されている主人公は、多岐に渡り装飾がされている。本当の主人公のことを知っているのは、俺たちの中でも少ないのではなかろうか。物語を読み進めているアーサーだって、会ったことがあるのかどうか。会ったとしても覚えているのかな。
 そんなこと、実は興味がなかった。過去は過去で、何があったとしても取り返すこともできないし、いなくなってしまった人に会いにだって行けない。それは理だ。
「あれ……」
 意識の隅でなにかが引っ掛かる。そう、理だ。死人は生き返らないし、過去にだって行けない。いなくなってしまった人にはもう……。

 ――ただ一度だけ、許して下さるんだ。でも引き換えに……。

 根幹に刻まれた底から、懐かしい声が蘇る。あれはいつ、どこで聞いたのか。
「なんだよ? まだ文句言うのか」
 記憶の底へ沈んだ意識をすくい上げるように、隣から声が掛かった。規則的に動いていたページは止まり、きつい眼差しがこちらを睨み据えている。
「なんでもないよ」
 肩を竦めて降参の意を表しても、怒りは収まっていないようだった。これは別事で意識を逸らした方が賢明だ。
「どうしてこの本なんだい。 あんまり幸せな結末じゃ、ないだろう?」
 十二人の騎士を従えた王様。でも最大の親友である騎士には裏切られ、愛した王妃すら騎士を選ぶ。臣も愛も彼を見放す。傷ついて傷ついて、全てを失う王様。孤独の王。
「物語のすべてが、幸福の結末じゃない。現実だって、幸福であるばかりじゃない。書物はそれを知る手っ取り早い手段だ」
 淡々とアーサーは言葉を並べる。その目はあの酷い行為の原因になった、消えてなくなるかもしれないと言ったときと、同じ色をしていた。
「先人は一番大事なことを簡潔に残してくれている。読むのは、忘れないためだ」
 裏切るから、と。裏切った方が悪いのではなく、信じたものにこそ罪があるのだと。
 君はほんとうにそう思っているの。
「ほんっとうに!! 仕方がないな君ってやつは!」
 ここでまた怒りを爆発させるのは逆効果だと、今度は分かっていた。
 彼寄りに置かれていた本を引き寄せると、俺は本を持ったままカウンターに駆け寄る。羽ペンとインク壺しかなかったがそれを開いて、俺は目的のページを探し出すとそこにペンを走らせた。
 荒い文字の脇にはぽたりぽたりとインクが落ちたけど構っていられない。孤独な王様が倒れその体を眠らせる直前。孤独の中で死んでいく王様に、俺は単語を書き足す。
 きっと王が目を閉じてしまう直前に、アーサーだって大好きな妖精たちが会いに来てくれるだろう。美しい花びらを散らせ、芳しい香りを放ちながら、タイターニアが降臨する。
 タイターニアはその手を伸ばし、王を妖精の国へと誘う。寂寥の絶望のない世界へ連れて行く。そこでは永遠に賛歌が響き渡り、王は心安らかに妖精と暮らしていくだろう。
 うん、なかなかいい傑作になりそうだ。素晴らしいラブロマンスになるのではなかろうか。
 趣旨がずれて映画の構想に没頭しそうな思考を慌てて修正すると、呆然としたまま椅子に腰かけているアーサーへその本を披露した。
「やっぱり終わりはハッピーエンドじゃなきゃ!」
 拳を掲げて言うと、ぷるぷるとアーサーの体が震えているのが見えた。感動のあまりに涙しているのだろうか。
 遠慮せず感銘してくれ。
「ば、ばかぁっ! 図書室の本になにしくさっているお前はぁ!!」
 まだインクの乾いていない本を投げ付けられた。アーサーだって本を武器にしていると思ったが、怒り心頭な彼には今は何を言っても聞こえなさそうだ。
 ストーリーの脚色くらい、いいじゃないか。元々物語性の強い作品なのだから。本を拾って手渡しながら言うと「ふざけんな!」と怒鳴られた。
 それでも続きは読むらしい。閉じた本をパラパラと捲り、読んだところと探しているアーサーの向かいに今度は腰掛けた。思えば、ひとつ空いた隣席よりも、こちらにいた方が彼が良く見える。
「君にはアヴァロンがあるのかな」
 ふと思い浮かんだ単語が口から飛び出す。
 王様がひっそりと傷をいやし、幾多の戦いで倒れた体を眠らせている伝説の島。苦しいことも辛いことも忘れて安息の眠りだけが訪れる場所が、彼にはあるのか。
「……ねぇよ。そんな場所」
 これは物語の中だけのものだろう。ここじゃないかって、候補はいくつかあるけど。
アーサーの応えは国としてのものだったけど、世界中のどこにも、安らげる場所はないのだと言われたような気がした。






  04.花は根に4

 結局アーサーが寝入ったのは明け方になってからだ。それを見ていた俺はまた一睡もしていなかった。だけど気分はさほど悪くない。
 なんと言っても、手の上には素晴らしい朝食が乗っているのだから!
 焦げもせず絶妙な焼き色のついたフランスパンと蕩けたチーズ、ミルクとバターでふわふわになったオムレツ、新鮮な野菜のサラダとオレンジジュースは、朝食として完ぺきだ。味だって保障されている。
 部屋を突き止めて扉をノックした俺を、フランシスは始め、疑り深そうに見つめてきた。しかし三枚舌の彼に育てられた杵柄は普段は使わないが、出来ないわけじゃない。そして相手は褒めると調子に乗ると知っている。
 フランシスは俺が彼の自室で手ずからの料理を堪能すると思い込んでいたようだったが、お生憎と皿と料理だけ頂いて、彼がカトラリーを用意しているうちに抜け出してきた。誰も髭面を見て食べたいなんて言ってないし、でも料理は食べたかったのは本当だ。嘘は吐いていない。
 空になったテーブルの上を見てまた自分の分を作り直さなくてはいけないだろうけど、料理好きなフランシスだから問題ないだろう。空にした皿と借りて来たお盆はちゃんと返しに行くつもりだ。
 アーサーはまだ寝ているかもしれないと思ってそっと扉を開けてみた。まだカーテンすら開けていない薄暗い部屋。予想に反して彼はすでに半身を起していて、がら空きになったシーツを撫でている。ぼんやりしている眼差しにまだ寝惚けているのかなと、ゆっくり声をかけた。
「おはよう」
「……っ」
 がばりと顔を上げて俺の方を見上げたアーサーに、こちらが驚いた。そんなにぼうっとしていたのか。
「どうしたの? 眠たい?」
「あ、ぃ、いや」
 ぎゅうっと力を込めた手でシーツに皴を寄せて、アーサーはふるふると首を振る。途方に暮れたような表情に、勉強机の上に盆を置くと、彼が蹲っているベッドに、ひとり分の距離を置いて腰掛けた。
体重にスプリングが軋んで跳ね返る。その揺らめきが収まるのを待ってから、膝を抱え込んで三角座りをしているアーサーを覗き込んでみる。
 虚ろな目は俺を見てくれない。なんだか迷子みたい頼りなさだ。
「お、お前、いなくなってたから……」
「うん」
「国に帰ったのかって思ってただけだ。なのにまだいたから驚いて」
「うん」
「勘違いするなよ! 別にお前がいなくなったらベッドだって広くなるし、ちゃんと寝られるようになるし、寂しくなんてないし」
「そうかい?」
「そうだ! また一人に戻るだけだっ」
 たったそれだけだ。それだけなんだ。
 じゃあどうして、こんなに寂しい気持ちになるんだろう。ひとりでいることは当たり前で、真っ暗な中ずっと空を見上げていることも苦痛じゃなかったのに、どうして早く朝日が昇ればいいと願うようになったんだろう。
 君に会ったからだ。
ひとりじゃないと手を握り合ったから、明日になれば、君が乗る船が港に来るかもしれないと希望を持つようになったから。
 寂しくないと言い聞かせなくちゃいけなかった孤独を、夢の中の君はちゃんと感じてくれている。共有できる。
 大西洋を駿馬のように突っ切るなんて無理だと、小さくとも俺は知っていた。風が荒れれば先に進むことはできないし、本国だって許しはしない。
 アーサーには縛るものが多くて、大西洋は絶望的なまでに広かった。手紙さえも到着できないときもあって、早く会いに来てという言葉もうまく届きやしない。
「ひとりは、悲しいね」
 涙を見せないために伏せられた頭をそっと撫でてみる。手が届く近さは、俺たちにしてみれば奇跡のようなものだった。
 本当は、現実での彼を傷つけている場合じゃないって分かっている。こうして傍にいられるうちに手を伸ばさないと、いつまでも平和な時代が続くなんて保証はない。
 この夢だって、所詮は夢だ。覚めたら終わってしまう。現実とのアーサーとの距離が近づいているわけじゃない。
「ほんとうに、優しくしたいんだけどな……」
 折角の朝食が冷めたのは分かっていたが、アーサーが泣き止むまでは腰を上げる気には、なれなかった。